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白いカラス
監督:ロバート・ベントン
2004年6月19日(新宿武蔵野館1)

 女性は美しさを隠し



 女性は美しさを隠し、男性は醜さを隠す。この映画の或る場面、枕で腰を浮かせてベッドに仰向けになったアンソニー・ホプキンスが白いシーツを醜く隆起した腹の上まで掛けているのですが、その様が、同様の場面で決まって胸元までシーツを摺り上げる女性にも似た「不自然さ」を漂わせていて、何となく滑稽でした。

 日本の学校の制服、特に詰襟の「学生服」などは今どき非常に評判が悪いようです。反対派の意見に耳を傾けてみると、専ら個性の芽を摘み取るもののように言われているのですが、ただ、その画一化による没個性は同時にまた「平等」をもまた生むわけで、イギリスのパブリックスクールのそれを範とした学生服が持つ重要な理念の一つはその「平等の精神」でもあるのです。此処で言う「平等」とはつまり、家庭環境の格差を学校に持ち込まないと言うこと、皆同じ指定の制服を着用する限りは、貧しい家庭の子供も裕福な家庭の子供も、差し当たりその「見た目」としては平等であり、貧しい家庭の子供が、機会平等を謳われた学校教育の場面に於いて、謂れなき劣等感に嘖まれることもまた(それなりに)なくなるのです。実体験の話をすれば、私も決して裕福な家庭に育ったわけではありませんから、高校生のときなど制服には大いに助けられも、尤も、その反動で、私服の着用が要請される週末や夏休みほど嫌なものはないと幾分捻くれてしまいましたが。ともあれ、学校に家庭環境を持ち込まないというそれは、或る意味「家庭」を捨て「一個人」として教育の場に在るということ、誰しもが社会的な属性の類を捨てて一個人に立ち返ってしまえば、もはや「差別」の生まれる要因など立所に消滅してもしまうわけで、逆に言えば、「差別」という低俗な感情は「人間そのもの」から目を背けることによって漸く生まれるものであると、そんなふうにもまた言えるのかも知れません。

 ただ、幾ら制服を身に纏ってみても隠し切れないものもやはりあるわけで、「肌の色」などもその一つ、もしそれを隠すのなら「婦唱夫随」で積極的に政治活動を行っていた頃の小野洋子が提唱したように白い袋の中に隠れる(バギズム)しかありません。この映画の物語状況が幾分特殊であるのは、主人公の男(アンソニー・ホプキンス)が生まれながらにして「白い袋」を被っているから、彼は自らの素性を隠すべくの道具を予め備えているのです。似たような主題の映画と言えば、やはりジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』を真先に想起するのですが、この映画とカサヴェテスのそれには実は似たような場面があって、それは恋人が「白人に見える黒人」(今どき「黒人」などという語彙は「政治的に正しくない」のかも知れませんが、此処には「政治」など何処にもないので、構わずその語彙を使用します)の家庭を訪問する場面、その状況が特別な意味を持つのは、制服や「白い袋」が隠し得るのがあくまでもその一個人の素性に過ぎないからです。取り分け重要なのは、玄関のドアをノックして中から顔を覘かせた人間とその恋人が始めて対峙するところ、カサヴェテスのそれの細かいカット割等は残念ながらよく覚えていないので此処で正しく比較することはできなのですが、この『白いカラス』の場合、玄関先での会話の場面では、表情を曇らせた母親(アンナ・ディーヴァー・スミス)の顔が終始捉えられており、ウェントワース・ミラーが彼女と抱擁を交わす段になってもまだジャシンダ・バレットにはカメラは向けられず、その場面の最後になって漸く(それこそ待ってましたとばかりに)カメラが向いたその先では、ジャシンダ・バレットが泣いているようにすら見える無理な作り笑いを浮かべて表情を凍らせていると、およそそんな感じです。個人的な趣味の話で言えば、この場合、結果は分かり切っているわけですから、今さら勿体ぶったカットの割り方など別段必要なくて(そのような割り方にはむしろ「いやらしさ」を感じてしまいます)、例えば、顔を覘かせた母親の表情に或る程度を語らせた上で、そのままジャシンダ・バレットが物も言わず泣いている帰りの列車の場面に飛んでしまっても別に良かったのではないかと、そもそも最後に捉えられたジャシンダ・バレットのあの表情はどうなのかとも。ともあれ、何れの場合も「恋人の家庭訪問」という状況は、自らの素性を隠してきたそれぞれがもはやそれを隠し果せなくなる状況であり、それはまた、単なる「一個人」に過ぎなかったそれぞれが、社会的、人種的「属性」を不可避として獲得してしまう瞬間でもあるのです。そしてさらに、何故その「家庭訪問」という状況が訪れるのかと言えば、彼らの間に「結婚」という一つの「社会的」な行為が要請されるから、結婚という社会的に要請された「ゴール」さえなければ、彼らはあらゆる属性から遠い場所でそれなりに幸福であり得たのかも知れません。勿論、そのようなことがあり得るのは、彼らが生まれながらにして「白い袋」を被るという僥倖に恵まれていたから、ケースとしてはあくまでも特殊です。

 この映画には個人的に非常に「嫌」な場面があります。ウェントワース・ミラーの父親が列車の中で倒れる場面がそれ、それは父親の早過ぎる死を教えるのと同時、その直前の場面では三つ揃いのスーツ姿で「家庭」にあった父親の職業が、実は食堂車のボーイでしかなかったことが(観客と)息子(ウェントワース・ミラー)に知れてしまう場面でもあります(直前の場面に於ける父親の「列車の時間に遅れてしまう」という発言に、迂闊な観客の多くは「出張」か何かを連想してしまったはずです)。この場面が何故「嫌」なのかと言うと、子供の頃、私も似たような体験をしているからです。上の方で「実体験」を晒した序でに此処でもそれを書いておけば、私の父親はいつもスーツ姿で出社していたので、子供の頃は所謂「サラリーマン」なのだと勝手に思い込んでいたのですが、或るとき父親の勤務先が催した家族向けの「職場訪問」のようなものがあって父親の職場を訪れることに、まだ子供だったとは言え、其処が「サラリーマン」の職場でないことくらいはさすがに分かり、私はそのとき初めて自分の父親が「工場労働者」であることを知ったという、確か小学校の2年生か3年生の頃の話、よくは憶えていないのですが、その事実に対しては子供ながらにショックを受けたような記憶もありますから、子供の頃の私は酷い職業差別をしていたものだと、今となってはそんなこともまた思うわけなのですが、とにかく、その場面を観たときに自身が子供の頃に感じた複雑な感情がふと蘇って、何となく嫌な気持ちになったということです。ちなみに、定年までその職場で働いてほんの少しくらいは出世もしたらしい私の父親は、この映画のそれとは違って今でも健在です。否、私の話などまるでどうでも良いのですが、この一連のシークエンスが重要なのは、此処でもまた「個人/家庭」の対立が浮き彫りになるから、尤も、これは上述の「家庭訪問」を丁度裏返したような両者の関係でもあり、つまり、同族コミュニティ内部(家庭)に於いては威厳を持ち得ても、個として晒される「外部」ではその立場を失う、ウェントワース・ミラーがその内部に立ち返ったとき「黒人」となるのに対して、その父親(を含めた普通に肌の黒い人達)は外部に投げ出されたとき「黒人」となる、もし彼らが「黒人」であることを止めたければ、前者は、実際、アンソニー・ホプキンスがそうしたように、差し当たり「家庭」を捨ててしまえばどうにかなるのですが、後者はひたすらに「家庭」に閉じ籠る(黒人のみで独自のコミュニティを形成する)しかない、これは多分アンソニー・ホプキンスを糾弾するための物語ではないでしょう、肌の色が裏返っただけでその「内/外」の関係までもが同じように裏返ってしまう低俗な世の中、糾弾されるべきはそれ、アンソニー・ホプキンスは、ただ水が高きから低きへと流れるように、その身を処したに過ぎません。

 この映画も、最近だと『21グラム』がそうであったように「錯時法」によって構成されています。尤も、此処に於けるそれは比較的「穏便」で、『21グラム』のように物語を追い掛ける人間を混乱させることもありません。過去の挿入(フラッシュバック)のタイミングも非常に理に適っていて、アンソニー・ホプキンス自身による「想起」と見做しても良いくらい、『21グラム』の「過激」なそれが物事の因果関係を消滅させていたとするならば、此処に於けるそれはその順序を控目に入れ替えることによって「因」の方により重点を置くとかその程度のこと、衒いのない説話行為に過ぎません。特筆すべきがあるとすれば、冒頭に配置された「自動車事故」のシークエンスでしょうか。この映画が主人公の「人生の終わり」から始まっているということもそうなのですが、それよりも、後半になってそのシークエンスが反復されるときのカメラの挙動が目を引きます。『21グラム』のときも似たようなことを書いたのですが、錯時法によってその場面の意味なり結論なりを予め観客に教えておけば、それが反復されたときに本来「主」であるべき(その場面の)幾つかの事実からカメラの視座を引き離してしまうことが可能になります。この場合で言うならば、アンソニー・ホプキンスとニコール・キッドマンを乗せた自動車が湖に転落したという事実など「既知のこと」として差し当たり無視できてしまうわけで、ならば、その事実を等閑にしてしまったカメラは一体何を捉えていたのか、それは何事もなかったかのような顔でハンドルを握り自動車を走らせ続けるエド・ハリスの表情、それがとにかく素晴らしいのです。そのシークエンスが錯時法によって語られ反復された一番の理由は其処にあったのではないかとすら、これはアンソニー・ホプキンスの人生の終わりから遡行された物語ではなく、エド・ハリスが無表情にハンドルを握りひたすらに自動車を走らせ続ける映画、この映画の終わりに配置された、そのエド・ハリスが氷上で釣り糸を垂らすあの美しいイメージ、これは或る目的を持って自動車を発進させた彼が、やはり或る目的を持って自動車を停止させるまでの映画、事実も何も、このフィルムは実際そんなふうに並べられているのです。

 公開初日の土曜日の午後、小さな箱だったこともあって満席でした。ところで、この映画の終わりの方の上でも触れた釣り糸を垂らす場面、エド・ハリスに「何て本を書いているんだ?」と問われた作家のゲイリー・シニーズが"Human Stain"と答えるのですが、其処の字幕が「人間の瑕」となっていました。実は、この映画の劇場用の予告編ではその部分の字幕が「白いカラス」となっていたのですが、"Human Stain"が何故「白いカラス」と訳されてしまうのかと言うと、この映画の原題が"The Human Stain"で、つまり、劇中でゲイリー・シニーズが書いている本の表題とこの映画の表題が一致するというのがその状況の本来なわけで、その「白いカラス」と云ふ翻訳は、原語の直接的な意味よりも二つの表題が一致するという状況の方を重んじた翻訳、個人的にはむしろ其方の方が翻訳の仕方として「正しい」と思っているので、本編の字幕が普通に「人間の瑕」になっていたのは少し残念な気もしました。


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