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風の痛み
監督:シルヴィオ・ソルディーニ
2004年6月20日(ユーロスペース2)

 太陽の沈む方へ



 私はひたすらに太陽の沈む方を目指して歩いた。西には違う国があることを知っていたからだ。

 精確な引用ではありませんが、この映画の中にこんな感じの台詞(モノローグ)が出てきます。家出をした少年時代の主人公が母親と祖国を捨てて旅立つ場面なのですが、私のような島国に暮らす人間にはこれは非常に「遠い」話でもあって、何故なら、ただひたすらに歩くだけで異国へ辿り着いてしまう(祖国を捨ててしまえる)など(物理的に)到底あり得ないからです。現代の日本という国は少なくとも経済的には豊かですから、そもそも「国を捨てる」という状況を想定すること自体が難しいのですが、それに加えて、四方を海に囲まれているという地理的状況がもたらす「困難さ」のイメージは、「監獄」とまでは言わないにしても、「私」と「国家」の関係を省みたとき、「私」に科せられた宿命的「不自由さ」として立ち現れるものとも言えるのかも知れません。大仰な物言いのようですが、太陽が沈む方を目指して幾日歩いたところで、何れは日本海を眼前にして立ち止まらざるを得ないのが「我々」の現実なのです。ちなみに、この映画もやはり「海」の場面で終わるのですが、しかし、此処に於ける「海」は決して「旅の終わり」を意味したりはしません。もしカメラが遥かな水平線と其処に漂うヨットでも捉えていたのなら、あるいはそのような予感もあり得たのかも知れないのですが、この映画の最後に示されたのはあくまでも(其処からほんの少し歩けば幹線道路が走っているに違いない)「海岸」なのであって、イメージとしては「終点」ではなく「経由地」、其処は「安息の地」でもなければ「行き止まり」でもないのです。

 トビアシュ少年はしかし、実際には太陽の沈む方を目指してひたすらに歩いていたわけではなくて、森を彷徨う彼の主観ショットに続くのは、彼が貨物列車の荷台に座してジャガイモか何かを齧っているショット、彼は移動手段を「列車」に変えているのです。執拗に「バス」の場面が反復されるこの映画に於いて、「列車」がスクリーンに現れるのはその場面ともう一度だけ、それは上述した「海岸」に至る直前の場面、彼ら(トビアシュとリーヌ)は「列車」をその移動手段として最後の海岸に至るのです。この二度の列車の場面に共通するのは、言うまでもなく「越境」という動作、東欧の故国から「西」へ、スイスからイタリアへ、何れの場合も国境線は(飛行機ではなく)列車によって跨がれるのです。これもやはり欧州の各国が陸続きである故に可能なこと(今どきは英仏間ですら列車による移動が一般的です)、否、そんなことは当たり前の話なのですが、少なくとも「列車」を越境の手段と考えることなど先ずない「我々」には、ひたすらに遠いイメージであることに変わりはないのです。列車は予め敷かれたレールの上を走る、つまり、その上を実際列車が走るのを待つまでもなく、鉄道のレールは国境線を予め縦に鋭く貫いているわけで、単に「上か下か」の問題に止まらない「列車」と「飛行機」のイメージの差異はそんなところにもまた、我々の足元に実際「線」などなくても、徒歩であれ列車であれ、地上をひたすらに直線移動する限りに於いては、それを跨ぐ瞬間は必ず訪れるのです。

 余談ですが、「飛行機」と言えば、最近観た幾つかの映画にそれが象徴的な存在として描かれていました。一本はチョン・ジェウンの『子猫にお願い』、その映画は離陸する飛行機をスローモーションで捉えたショットで終わるのですが(私の目に「飛行機が実際にゆっくりと飛んでいる」ようにしか見えませんでしたが、勿論、良い意味で)、それもやはり「越境」という動作を意味するもの、韓国は島国ではありませんが、その映画に於ける少女達の鮮やかな「飛躍」を表象するという意味に於いて、「列車」ではやはり何かが足りないと考えられたのかも知れません。そして、此処で引き合いに出すもう一本は、この『風の痛み』と同じ「イタリア映画祭傑作選」のプログラムとして上映されているマルコ・トゥリオ・ジョルダーナの『ペッピーノの百歩』、その映画はイタリアのシチリアという「島」を舞台としていますから、「外部」との繋がりを模索すれば、やはりどうしても「空港」が重要な意味を持ってしまうわけで、その映画に於いてはまた「同時代性」を意味するものとしてジャニス・ジョプリンやプロコルハルムの「音楽」が引用されてもいるのですが、それもやはり空間的「外部」との関係を示唆するもの、「空の玄関」や電波や然るべき媒体を介して流れ込んでくる「言葉の壁」を打ち破るものとしての「音楽」が其処にあるという状況は、否、別に何を批判すべきものでもないのですが、「列車」による「越境」という状況が感じさせもした圧倒的な距離感と比べると、それは私にとっては随分と「近しい」ものでもあって、私は実はその『ペッピーノの百歩』を酷く「通俗」な映画だと感じてしまったのですが、その理由の一つはそんなところにあるわけです。勿論それは酷い「言い掛かり」の類に過ぎず、あるいは、日本の現代劇を「サムライ」の不在をして「物足りない」と評するのにも似た「無責任さ」があるのかも知れません。

 さて、これは多分私の印象ほど「列車」が重要な映画ではなくて、人間を乗せる「空間移動装置」の話なら、むしろ「黄色い路線バス」や「自転車」の方が余程重要なのかも知れません。此処に於ける「列車」が「越境」という飛躍的動作に結び付くものであるとするならば、「路線バス」や「自転車」にもやはりそれに相応するものがあるわけで、つまり、それらにしても、この映画に於いては単に人間をA地点からB地点へと移動させるための道具では決してないのです。例えば、執拗に反復される、と言うより、この映画の主要な舞台とすら言える「バス」の場面の一つにこんなのがありました。カメラはバス停でバスを待つリーヌを先ず捉え、そのまま彼女の視座に合わせるように移動してバスに乗り込む彼女を捉える、すると、其処にはいつも決まった席に座っているはずのトビアシュがいない、この場面がそれ以外の「バスの場面」と比べて明らかに異質なのは、バスに乗り込むという一連の動作が専らリーヌの視座によって捉えられているから、トビアシュの視座を借りたそれ以外の場面では、間違っても「バス停」が捉えられたりしないのです。多少勘の良い人なら、其処に「バス停」が捉えられた瞬間に「(彼女が待つ)バスにトビアシュが乗っていない」というその場面の結論が想像できたに違いありません。バス停での彼女を捉えるカメラは、本来の視座、即ちトビアシュの不在を予め教えているにも等しいからです。つまり、此処に反復される「バスの場面」の視点の所在は「待つもの」の側にあるということであり、その場面が教えるのはリーヌもまた「待つもの」である(「待つもの」に転じた)ということ、リーヌとトビアシュの狂おしい恋愛の物語は、そんなふうに語られているのです。従って、此処に於ける「路線バス」とは「誰かを待つ場所」であり、また、その誰かと「愛を語る場所」であると、そして、それが「A地点からB地点へと移動する装置」であるというもう一つの事実は、空間よりもむしろ時間、彼らに与えられた「幸福な時間」の有限性を意味することになるのです。

 では、「自転車」の方はどうかと言えば、トビアシュが自転車を駆って向う先はいつも同じ、それは「リーヌの家」なのですが、これがやはり単なる「空間移動装置」でないのは、その装置が運転者自身の運動を要請することに加えて、その移動に用いられるべきが「自転車」である積極的な理由など何処にも見当たらないから、リーヌの家はトビアシュが通勤に利用する路線バスの経由地なのですから、当たり前の話、トビアシュの家とリーヌの家はバスの路線で繋がっているわけで、単に「空間の移動」のみをその目的とするならば、其処でもやはり路線バスを活用すれば良いだけの話なのです。それでもしかし、彼は決してバスに乗らない。理由は簡単です、既述の通り、此処に於ける「バス」は「誰かを待つ場所」もしくは「愛を語る場所」であるから、トビアシュが独りでリーヌを家を目指すという状況にその装置はまるで相応しくないのです。彼がもし間違ってバスに乗ってしまうとどうなるか、それはこの映画の初めの方にあった通り、バスの中で眠り込んで終点で下ろされた挙げ句に森を彷徨い倒れてしまうと、其処に於ける「バス」は単なる「空間移動装置」に堕しているのです。そして、自転車を駆ってトビアシュがリーヌの家を目指すとき、運転者に要請された「運動」が既に何かを表現し得ていると言うか、激しい情念を内に秘めた彼の存在がまさにその「運動そのもの」としてスクリーンに切り取られることに、あれは何と呼ぶべき手法なのでしょう、スクリーンの左に切れた像が再び右から現われるあれ、歓喜の表情で自転車を駆るトビアシュのクロースアップがそんな手法でスクリーンに切り取られるのですが、其処にはもはや彼のモノローグすら不要なのです。路上に投げ置かれた「自転車」を見つけてしまったリーヌと木陰からその彼女の動揺した様を盗み見るトビアシュ、既に運動を止めた自転車ですら、彼らの関係に於いては重要な意味を持ってしまうのです。

 クリスマスプレゼントに「薬罐」を差し出すときのサスペンス、いつも一突きで事を済ませてしまうナイフ(包丁)、男と女の間に置かれ緊張関係の「箍」となる赤ん坊、フランス語とチェコ語とイタリア語、そして、風の音、私感に過ぎぬとは言え、このフィルムに印象的(魅力的)なものは枚挙に遑がありません。

 蛇足ながら、話を「列車」に戻して一つ付け加えておけば、その状況がもたらす「距離感」もしくは「違和感」にも関わらず、何故か「懐かしさ」を感じてもしまうのが、この映画に於ける二度の「列車の場面」でもあります。列車の進行方向に背を向けて荷台に座して(盗んだ)ジャガイモを齧る少年、客車で互いに向かい合わせに座して車窓から差し込む眩しい光線に照らされる物言わぬ二人、それらのイメージ(ショット)は「映画」に於いて既に幾度となく反復されているものであり、私が感じた「懐かしさ」の因は間違いなく其処にあります。説明に足りないことを「映画的」として終わらせてしまうことなど本当はしたくないのですが、しかし、二度の列車の場面や此処に切り取られた幾つかのイメージはやはり「映画的」であるとしか、何であれ、私にとってはその「遠くて近い」ものこそが映画であり「映画的」な何か、このシルヴィオ・ソルディーニのフィルムを「素晴らしい」と言って憚らない理由もそれ、否、「それでしかない」のです。

 公開初日の土曜日の午後、狭いユーロスペースは半分も埋まっていませんでした。本文でも少し触れましたが、これは「イタリア映画祭傑作選」と銘打たれた特集上映のうちの一本、残りの二本のうち『ぼくの瞳の光』はこの同じ日に、本文でも名前を出したもう一本の『ペッピーノの百歩』は翌週の日曜日に観ています(そのときにこの『風の痛み』をもう一度観ています)。私が確認した限りでは『ペッピーノの百歩』が最も客を集めていて、この『風の痛み』は一番の人気薄、二度目に観たときなど時間的にこともあったのかも知れませんが客は私を含めても十人にも満たない程度でした。どうしてこんな差が出てしまうのか不思議で仕方がないのですが、その「人気」の丁度「逆順」が私の評価に一致しているということにはほんの少しだけ満足していたりもします。


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