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子猫をお願い
監督:チョン・ジェウン
2004年6月26日(ユーロスペース2)

 インチョンの空の下



 この映画のラストショットは離陸する旅客機をスローモーションで捉えたものです。それが「スローモーション」になど見えず、むしろ、その旅客機が本当にゆっくりと飛んでいるようにも見えてしまうのが、この映画の素晴らしさを端的に示すものだと私は思っているのですが、差し当たりそんな話とは関係なく、しかし、よく見るとその旅客機は「離陸」しているのではなく「着陸」しているようにも、あるいは私の目の錯覚に過ぎないのかも知れないのですが、機影が遠ざかるに連れむしろ高度が下がっているようにも見えます。これはあくまでも私の推測なのですが(高度が下がっているということ自体まるで確かではありませんから推測に推測を重ねるわけですが)、これは空港の敷地内での撮影を許可されず、敷地の外から撮影せざるを得なかった故のことなのかも知れません。何故なら、空港の敷地の外から金網(境界線のイメージ)を跨ぎつつ遠ざかっていく機影を背後から捉えるには空港に戻ってくる(着陸する)飛行機にカメラを向けるしか方法としてあり得ないから、勿論、その場面に於ける物語的な意味は間違いなく「離陸」ですから、これはまるでどうでもよい類の「事実」に過ぎないのですが、しかし、そんな「不自由さ」が、何となくこの映画の主題とも遠く繋がっているような気もしたので、取り敢えず指摘してみた次第。

 個人的に携帯電話の「繋がり」には些か懐疑的なところがあります。何故ならそれはそもそも「繋がって」いないから、「繋がる」ということなら、むしろ旧来の有線電話の方がイメージとして明らかに優位、張り巡らされた電話線網が電話機同士を物理的に繋いでいる(イメージがある)からです。携帯電話同士が「繋がる」のは、あくまでも或る人が或る人に電話を架けてその或る人が電話を受けた状態、つまりは通話が成立した状態に於いてのみ、従って、通話を止める(「オフ」のボタンを押す)のと同時にその「繋がり」もまた消滅してしまうのです(有線電話なら、通話を止めた途端に電話線が火花を散らして焼き切れてしまうということでもなければ、その「繋がり」は持続されます、勿論、あくまでも「イメージ」としての話ですが)。その意味に於いて、携帯電話というのは非常に排他的なコミュニケーションの道具とも言えるわけで、何故なら、大抵の場合、誰と繋がって誰と繋がらないかということがその個人の意志によってのみ決定されるから、携帯電話の番号はあの黄色い「電話帳」で調べることすらできないのです。例えば、テヒとジヨンが歩きながら或る埠頭に行き着く場面、それぞれの携帯電話にそれぞれ相手が知らない誰かから電話が架かってくるのですが、お互いにそれが誰からの電話であるかは明らかにせず、しかも(電話の相手に対して)一緒にいる人間を「ただの友達」と表現するのみで、決して積極的に説明しようとはしない、その結果、その場には非常に気まずい雰囲気が漂ってしまい、その場面もその気まずさのまま終わってしまうことになります。携帯電話への着信によってそれぞれに発生した新たな「繋がり」が、直接の対話によって成立していた「繋がり」をも消滅させてしまう、それもやはり携帯電話の持つ「排他性」の一つと言えます。象徴的なもう一つ、ヘジュの誕生パーティーの場面にテーブルの隅に仲良く並べられた五つの携帯電話を捉えたショットがあります。それは如何にも「現代風」で微笑ましくもあるのですが、しかし、如何に「仲良く」それらを並べてみたところで、それら同士が「繋がる」ことなど永遠にあり得ないのもまた見落とせない事実、何故なら、既述の通り、携帯電話は通話が成立して初めて「繋がる」わけですから(実際、その場面に於いても「繋がり」は外部から訪れることになります)。

 さて、有線電話の比喩に於ける「予め繋がっているもの」とは、此処で言うなら差し当たり「家族」がそう、テヒがその繋がりを如何に拒絶しようとも(家族と食卓を供にせず鍵付きの自室に閉じ籠ろうとも)、テヒとその家族は予め繋がってしまっている、少なくとも「社会的認識」としてはそういうことになっています。此処にあるのはつまり、「有線電話的」な旧来の「繋がり」を拒絶して、「携帯電話的」な新しい「繋がり」を模索する物語、テヒやヘジュは目の前に有線電話があってもそれには見向きもせず携帯電話を使う、また、崩壊が予感された家の修理のためにテヒからお金を借りたはずのジヨンが、そのお金を携帯電話の「機種変更」のために使ってしまうのなどまさに象徴的、実際、それが遠因で彼女の「家」は綺麗さっぱり消滅してしまうことにもなるのです。ただ、この物語を追ってみると、新しい「繋がり」を積極的に模索しているのは、自発行為として家出を決意するテヒだけとも言えなくもないわけで、しかし、それでも彼女らは皆「携帯電話的」な「繋がり」の只中に投げ出されることに、其処で「第三者的」に活躍するのが「子猫」であるのは言うまでもないことです。

 洋の東西を問わず多くの場合「猫」は不吉なことの象徴とされているのですが、劇中の説明を借りれば、この映画の舞台となる韓国でもやはりそんなふうに言われているようです。表題の通り、これはジヨンによって拾われた子猫が五人の仲間のうちで順番に「お願い」されていく物語、勿論、伝承の通り「不吉」を撒き散らしながらです。此処に於ける「不吉」が専ら「家の崩壊」にあるのは言うまでもないこと、実際、子猫を預かった順番にその「不幸」に見舞われていきます。誕生日のプレゼントとして最初に子猫を預かったヘジュは両親の離婚に伴って彼女らの間で先ず最初に家を失う(ソウルに引越する)ことになります。それを正しく予感させているのはこの映画のオープニング、窓を割って外に飛び出してくる物体と、何故かボロボロでとても動きそうもない自動車、この映画は最初に子猫を預かることになるヘジュの不幸(の予感)によって幕を開けるのです(他の四人を当たり前のようにソウルへ呼び付けてしまう彼女の傲慢さは、しかし、それ故にその宴の終わりと同時に地下鉄のホームに独り取り残されてしまうという寂しくも美しい状況を引き受けることで見事に「帳消し」にされているようにも思われます。チョン・ジェウンは彼女ら五人を「差別」なく扱っているということです)。ともあれ、既に「家」を壊してしまった以上、子猫の所在はもはやヘジュのところにはなく、必然として「次」へと移動することに、ジヨンの家です。彼女の家がそれから時を待って文字通り「崩壊」するのは言わずと知れたことなのですが(彼女の家がある貧民街の風景で取り分け美しいのはあの廃線の錆びたレールです)、少年院(=家)に収監された彼女が其処を出ることを決意する契機もやはり猫にあって、その少年院に住み着いている子猫の鳴き声(単に彼女の幻聴なのでしょうか?)に触発されるような描写があります。「家」に収まっている限りは何処であれ「不吉」は付き纏う、あるいはそんな意味なのかも知れません。そして、次に子猫を「お願い」されるテヒに関しては、既述の通り、むしろ彼女の自発行為として家を出る(家を壊す)ことになるのですが、それは彼女が子猫を家族の目の届かない場所(即ち「家」の外)に隠しておいたこととも関係があるのかも知れません。何れにせよ、子猫は「家」を破壊しつつ、恰もそれを「養分」とするかの如くに成長を続ける、最後にテヒの手から双子の姉妹に黙って差し出されたその子猫が、もはや「子猫」とは言えないくらいの大きさに成長しているその状況は、まるで「ホラー映画」のようですらあります。

 さて、此処で問題とすべきは、その『リング』のビデオテープの如き子猫の最終的な所在にあるのですが、二つの理由から、少なくとも子猫の所在に関する限りは、その「不幸の連鎖」が断ち切られた「ハッピーエンド」であると指摘しておきます。子猫の最終的な所在は言うまでもなく双子の家、確かに、オートロックのドアの所為で「家の外」に抛り出されしまう場面は何となく「不吉」を予感させもするのですが(彼女らが空になった酒瓶をテーブルの上でルーレットのように回す場面が何となく西部劇の一場面を観ているようでとても気に入っています)、しかし、中国系の彼女らは既に「家(=祖国)」を捨てた存在でもまたあるわけで、つまり、その「家」にはもはや「壊すもの」など何もないとも、また、理由はよく分かりませんが彼女らの母親は祖国に一時帰国をしているらしくその家には彼女ら二人が居るだけ、「家」はあっても「家庭」を予感させるものなど其処にはそもそもないのです(彼女らの母親に対する祖父の冷淡な態度が「家庭」が既に崩壊していることを示唆してもいます)。そして、もう一つの理由は、其処が中国系の家であるということ、「招き猫」の起源が中国にあることや「風水」に於ける猫の象徴的な意味を当たってみれば、中国に於いては「猫」が必ずしも不吉な存在ではないことが分かるわけで(勿論、そういう意味もまたあるようですが)、その意味に於いて、彼女らの家は子猫の最終的な所在として実に「収まりが良い」とも言えるわけで、あるいは私の勝手な解釈に過ぎないのかも知れませんが、「不幸の連鎖」は其処で見事に断ち切られたと、そんなふうに考えられます。

 この映画の冒頭、セピア色の画面に収まった高校生の頃の彼女らは、前の人の肩に手を乗せ縦一列になって愉しそうに歌い踊ります。記念写真を撮るときもやはり(カメラマンのテヒを除いて)互いに肩を組んでまさに「一体」となって其処にいます(その場面でテヒだけが海の方を向いていることに何らかの意味を求めるのは、多分深読みが過ぎるのでしょう)。この物語は多分「携帯電話的」な新しい「繋がり」を積極的に肯定するものでもないはずです。もし此処に何かが積極的に肯定されているとするならば、それはまさにその場面に示された人間同士が手に手を取り合うような仕方での「繋がり」なのではないでしょうか。それは「有線電話的」でも「携帯電話的」でもなく、また、決して「新しいもの」でもない、むしろ、そのセピアの色調が予感させるような、昔からあったにも関わらず既に忘れられつつあるもの、そして、何一つ難しいことなどなく、もしかすると最も簡単なこと、閉まり掛けたシャッターに向かって必死に駆ける彼女らの姿がこの上もなく美しいのは、其処に手と手の「繋がり」を発見するからに他なりません(離婚が成立したヘジュの両親が別々のタクシーで去っていく場面が或る意味好対照と言えるのかも知れません)。また、これは美しい場面の多いこの映画の中でも個人的に取り分け好きな場面でもあるのですが、物語の最後の方、彼女の幼なじみであるお人好しの青年が、泥酔したヘジュの口から火のついた煙草を取り上げて、一瞬捨て掛けたその煙草を彼は思い直して自分の口に銜えてみせる(彼は本来「嫌煙家」です)、そして、それを見たヘジュは彼の肩にその頭をそっと寄り掛けるという、此処にもやはり「手に手を」と同様の人間的な「繋がり」を予感させるものがあります。その意味に於いて、中国系の双子姉妹は彼女らの間に於いてそれと同様の「繋がり」を生まれながらにして実現しているとも、二人が同時にサングラスを外す滑稽な場面は、決して単なる「ユーモア」ではないのです。そして「有線電話的」な「繋がり」を自ら断ち切ったテヒにしても、「携帯電話的」な「繋がり」を維持したしたまま独りで旅立つこともできたはずなのですが、それでもやはりジヨンを旅の道連れとして選び、手と手を取り合うように有線電話網は疎か携帯電話の電波すら届かない遠い場所へと旅立って行く、二人が横並びで歩く勇ましくすらあるイメージは、此処に肯定された「繋がり」が、決して「有線電話的」な「繋がり」を否定するものではないにしても、しかし、何ものにも変え難く何ものにも負けない「確か」なものであることを示唆するものでもあります。

 公開初日の土曜日の午後、折からの「韓国映画ブーム」に蓮實重彦の「煽動」の効果も相俟ってか、狭いユーロスペースはほぼ満席でした。それにしても、最近の韓国映画は良作揃い、否、単に私が「最近の」しか知らないからそんなふうに思ってしまうだけで、もしかすると韓国映画は昔から優れた作品が多かったのかも、余り無責任なことは書けませんね。とにかく、この映画は美しい場面とか美しいショットとか美しいイメージに溢れていて、私としては思い出し得る限りのそれらを此処に列挙することを心掛けたりもしたものですから、不必要に(括弧)の多い(いつにも増して)読み辛い文章になってしまったのかも知れません。否、私がだらだらと解釈を並べている本文より、むしろそれらの美しいイメージを引用した(括弧)の部分だけを読む方が、余程この映画の素晴らしさが分かるのかも知れません。


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