Index

 
スパイダーマン2
監督:サム・ライミ
2004年7月3日(新宿プラザ劇場)

 蜘蛛男は本質に先立つ



 人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企することを意識するものである。(『実存主義とは何か』J=P・サルトル)

 スパイダーマンの空間移動が、例えば、スーパーマンやそれを模倣したのであろう『マトリックス』のキアヌ・リーブスと比べて余程美しいと思うのは、身体を思い切り仰け反らせてビルの谷間を颯爽と潜り抜ける姿そのものが美しいのに加え、自らの身体に前方移動させるべく、その運動の限りに於いて、前へ前へと糸を「投げる」その様が、人間存在の本来的在り方の一つ、サルトルの言う「投企」を見事に体現しているようにも見えるからです。確かに、空中にあるスーパーマンも常に前へ前へとその身体を移動させてはいるのですが、しかし、その様は余り「人間的」とは言えません。それは、彼が重力に抗うその仕方(原理)が、スパイダーマンほど「人間的」ではないということも勿論あるのですが、しかし、何よりも重要なのはその存在の本質に関わることにあって、否、端的に書いてしまえば、スーパーマンはそもそも「人間」ではないのです(故に「人間的」でなどあり得ない)。『キル・ビル2』でのデイヴィッド・キャラダインの「講釈」を持ち出すまでもなく、スーパーマンは生まれながらにして「スーパーマン」なのであり、そうであることを止めるなどできない存在、つまり、やはりサルトルの言葉を借りれば、彼は「ペーパーナイフ」がそうであるように、本質が実存に先んずる存在なのであり、サルトルの言に従えば、とても「人間的」な存在とは言えないのです(否、そもそもが「人間」ではないのですから当然なのですが)。他方、スパイダーマンはと言えば、些か特殊な能力を秘めているとは言え、彼が「人間」であるのは言わずと知れたこと、この続編では専ら「スパイダーマン=ピーター」の苦悩に焦点が当てられているのですが、その物語状況は正しく「人間的」であると指摘することができます。

 人間は自由の刑に処せられている、これもサルトルの言葉です。此処に於けるピーターの苦悩は彼が如何にも「人間的」に「自由の刑に処せられている」という状況があればこそ、彼は自らが「スパイダーマン」であることに苦悩するのでは決してなく、自分が「スパイダーマン」であろうがなかろうがまるで「自由」であるからこそ苦悩するのです。それはスーパーマンがその「不自由さ」に苦悩するのとはまさに対照的、ピーターにとっては彼が「スパイダーマン」であり続けるのも自由なら、止めてしまうのもまた自由、その二つの「自由」は正しく等価なのです(スパイダーマンへの「意志」が減じるのと同時にその「能力」もまた減じてしまうのなどまさに象徴的ではないでしょうか。また、それは単純な二者択一の問題なのではなく、その在り方を巡っての選択肢は無限に存在し、それらはすべて等価であるとも言えるでしょう)。そして、その生まれつきの、予め投げ出された「自由」の只中で、その正しい在りようとして何かを「選択」して往かなくてはならないのが「人間」であるとサルトルはまた言うわけで、此処にあるのはつまり、ピーターという一個の「実存」の「自己投企=選択」を巡る物語、その極めて「人間的」な在りようが正しくオーバーラップするからこそ、前へ前へとその身体を投げ出しつつビルの谷間を颯爽と潜り抜けるスパイダーマンの空間移動の姿は美しいのです。

 では、サルトルの話は一先ず措くとして、スパイダーマンの空間移動を運動学的にみると、その動作には決して「遅滞」が許されないことが分かります。空間移動に際しては常にタイミング良く糸を投げ続ける必要があって、もし其処に決定的遅延が発生してしまうと、彼は間違いなく地面に叩き付けられることになるのです(実際、その意志の曖昧さ故に「半スパイダーマン状態」だったときの彼は、その動作の遅滞の所為で何度も地面に叩き付けられていました)。そして、スパイダーマンのこの「遅滞不許」の原則が、彼がただの「ピーター」であるときの恐るべき「遅刻魔」ぶりに対比されるのは言うまでもないことです。ピーターはピザの宅配に遅れ、家賃の支払にも遅れる、大学に行っては講義に遅れ、コインランドリーにあっては「色落ち」の発生に(気付くのに)遅れる、芝居に遅れ、洗面所に遅れ、写真撮影に遅れ、電話に遅れ、料理も取り損ねる、当然ながら「アドバンス」など貰えるはずもなく、そして、恋人を巡ってもやはり決定的に遅れてしまうのです。対照的に、スパイダーマンの「遅滞不許」の原則はその空間移動の場面に限らず徹底されており、彼は誰一人をも地面に叩き付けてしまうことなく、また、自動車との接触も巧みに回避する、そして何よりも、彼は遅滞なく人類を「核融合の危機」から救うのです。特筆すべきは、邪悪の道に堕ちた「ドック・オク」に対してもまた、決して遅滞することなく、彼を「真人間」に引き戻し得たということ、スパイダーマンは彼を「懺悔の機会」に見事間に合わせたのです。

 さて、この対比に於いて重要なのは「ピーターは遅滞する」が「スパイダーマンは遅滞しない」という分かり切った事実などではありません。もしその事実にのみ依拠するならば、両者の間には(一個の通俗な視点として)明らかに「優劣」が存在し、従って、それらの「選択」の場面に於ける「苦悩」も途端に胡散臭いものとなってしまうのです。これら両者の比較に於いて重要なのは、つまり、ピーターは遅滞が「許される」がスパイダーマンは遅滞が「許されない」ということ、確かに、ピーターの幾つもの(遅滞による)失敗は、彼にそれなりに惨めな結果をもたらしはするものの、しかし、それらは十分に取り返しが可能なこと、ピザ屋が駄目なら別の勤め先を探せば良いというそれだけの話に過ぎないのです。しかし、スパイダーマンにそれは許されません。彼の遅滞(=失敗)は、空間移動に際しては自らの生命に関わり、犯罪事件に於いては被害者の人命に関わる、今回の「ドック・オク」との死闘に至っては、その遅滞がもたらしたのかも知れない悲劇などもはや想像だにできません。何れにせよ、この「許される/許されない」の関係はその動作に付随した「責任」の軽重の問題として捉えることもまた可能、其処で話は再びサルトルの「実存主義的ヒューマニズム」に戻ります。

 サルトルによれば「投企」には「責任」が伴うとのこと、それはつまり、彼の喩えを借りるなら、私が誰かと結婚するとして、それは私個人にのみ関わることではなく、その選択(投企)は同時に「婚姻制度」そのものを容認する態度であり、それを認める社会に対して責任を負うことになる、要は、私が結婚するということは婚姻制度に対して賛成の立場を表明するのに同じであり、その立場としての社会的責任をも同時に負うことになるということです。スパイダーマンの「投企」に失敗は許されません。つまり、彼の選択は常に正しくなくてはならない(正しいタイミングで正しい場所に糸を投げなくては、彼は落下してしまいます)、それは「アンガージェする主体」として最も重い「責任」を自らに科す高度な生き様なのであり、例えば、スパイダーマンが誰かと結婚するなら、それが即ち「婚姻制度」の正しさを裏付けることにもなってしまうわけで、従って、彼はそれが余程「正しい」と判断されない限り決して結婚などできない(しない)のです。思うに、それが即ち「超越的社会正義=ヒーロー」のあり方なのではないかと、スパイダーマンの美しい空間移動の姿はまさに「ヒーロー」そのものである、と。他方、ピーターによって繰り返される「失敗」は、それが仮に「責任」の欠如によるものであれ、彼が単なる「一市民」に過ぎない以上、サルトルも大目に見てくれるに違いありません。尚、念のため補足しておけば、此処で「スパイダーマン」と「ピーター」を分けて考えているのはあくまでも便宜的なものに過ぎません。本来的にはあくまでも「スパイダーマン=ピーター」という一個の実存なのであり、この『スパイダーマン2』がその一個の実存による投企の物語であるのは既述の通り、従って、物語的に、仮に彼が「ピーター」であることを選択したにしても、それはそれで(サルトルも認めてくれるに違いない)十分に「責任」を自覚した「投企」であることに変わりはありません。

 スパイダーマン(=ピーター)は自由の刑に処せられている、しかし、彼が「ピーターかスパイダーマンか」の二者択一に囚われている限り、彼はあくまでも「不自由」を体現しているに過ぎず、その姿はとても「人間的」とは言えません。大抵の「ヒーローもの」がそう、観客が「ヒーロー」のジレンマにもどかしさを感じてしまうのは、彼らが「人間的自由」の可能性を予め抛棄してしまっているから、観客が当たり前のように知っていることを彼らは「知らないふり」で遣り過ごしてしまうのです。

 ピーターであり且つスパイダーマンでもある。

 彼らが予め抛棄する可能性とはこれです。勿論、「二択」が「三択」になったという話ではありません。自由の刑に処せられている以上、例えば、「スパイダーマンである」もしくは「ピーターである」を極北として「ピーターが7でスパイダーマンが3」であるとか「ピーターが1でスパイダーマンが9」等々、選択の可能性などそれこそ無限に、正しく「人間的自由」の只中にあるとはそういうことです(ちなみに、最終的に人々の前から去ってしまうありがちなパターンは「ピーターでもなくスパイダーマンでもない」という最もネガティブな選択肢に自足することに他なりません)。この映画の終盤、観客はスクリーンに「半神半獣」にも似た「異様なもの」を目撃することになります。しかし、その外見の「異様さ」に反して、それが如何に「人間的」であるかは、此処までを読んでいただいた方には十分お分かりいただけたはずです。何れにせよ、此処に於ける「スパイダーマン=ピーター」の投企(選択)は差し当たり「いいとこどり」とでも評すべき物語的結論を導くことになるのですが、しかし、果たして本当にそれで済んでしまうのか? それを知るには、おそらく「完結編」となるのであろう次作を待つより他はないでしょう。とにかく愉しみです。

 一般公開の一週間前、先行オールナイト上映午前0時からの回、広い新宿プラザ劇場は八割方埋まっていました。このシリーズのキルスティン・ダンストがまるで美しくないのはおそらく衆目の一致するところだと思うのですが(彼女だけソフィア・コッポラにでも撮らせてはどうか、とも)、しかし、彼女が「ドック・オク」に攫われるときの恐怖に戦慄く表情だけは一見の価値があると思いました。別にサム・ライミがキャスティングわけでもないのでしょうが、「なるほど、これだったのか!」と独り得心したりも。彼女はホラー映画に出演すべきです。ホラー映画と言えば、手術室で「アーム」が暴れる場面は見事、「影」を巧みに操った映像とモンタージュは見事な「ホラー映画」でしたね。


Index