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ドリーマーズ
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
2004年7月16日(シネスイッチ銀座1)

 はなればなれに



 近年の、取り分け『魅せられて』以降のベルトルッチと言うと、何処か「若さ」に固着している印象があります。彼がリブ・タイラーを眼差す其処に直感したのは「欲動」というよりは「嫉妬心」のようなもの、次の『シャンドライの恋』で見せたあの「揺れるカメラ」は、まるで自らの内に止まる「若さ」を試しているかのようでもあり、そして、それは同時に『魅せられて』に直感されたそれを正しく裏付けるものであるようにもまた思われました。そんな流れの中で撮られたこの『ドリーマーズ』という映画、「五月革命」前夜のパリを舞台とした三人の若い男女の物語と聞けば、どうしても或る種の「期待」が生まれてもしまうものです。結論から言えば、その「期待」は見事に裏切られることに、確かに、後ろ手に縛られて柵に凭れ掛かるエヴァ・グリーンを捉えたショットには目を奪われるものがあったのですが、しかし、それはリブ・タイラーを眼差したそれとは何処か違うもの、多分それはエヴァ・グリーンが(リブ・タイラーと比べて)余りにも易々と裸体を晒してしまったからだけではないはずで、強いて言えば、そのような眼差ならむしろルイ・ガレルに向けたそれに幾らか感じるところがあったとも。嘗て「教育者」であったクリント・イーストウッドは、『スペース・カウボーイ』を境にもはや「教育者」であることを止めて「庇護者的」な存在になったと私は思っているのですが、今回のベルトルッチに感じたのもそれと似たようなこと、オリヴェイラにそんなことを感じるなどいまだにありませんから、別に「老境の必然」でもないのでしょうが、あるいは「それも一つ」なのかも知れません。イーストウッドはともかくとして、ベルトルッチに関しては、悪く言えば「枯れた」と、視線の先にある、自らが既に失ってしまったのかも知れない何かを呪詛しつつも、それによってまた自らを奮い立たせようともする、見ようによっては見苦しくすらあったその劣情にも似た熱情を、少なくともこの映画に感じることはありませんでした。そして、その代わりにあったのは諦念と置き手紙、この後、彼は一体何を撮るつもりなのでしょう?

 さて、これは男二人と女一人の「三角関係」の物語ですから、女が二人の男のうちの何れかを選ぶことによってその三角関係が崩壊する、つまり、その三人が二人と一人に「別れる」ことを以て一つの結論とするのは或る意味「必然」と言えるのかも知れません。この映画には三人が「二人と一人」に別れる場面が二度、その一つは言うまでもなくこの映画のラストなのですが、もう一つの場面はこの映画の比較的早い段階で訪れます。それはこの三人が初めて出会うシークエンスの終わり、出会ったばかりでまだ共同生活を始める前ですから、当然ながらそれぞれがそれぞれの家に帰ることになるのですが、其処での彼らの「別れさせ方」が個人的に非常に気に入っています。否、別に大したことをしているわけでもなくて、其処に酷い雨を降らせることによって、例えば、互いに握手をして「また逢いましょう」と約束するような有り体な「別れの儀式」を見事に回避しているというそれだけのことなのですが、しかし、それに続くマイケル・ピットを叩き起こすルイ・ガレルからの唐突な電話の場面と併せてみれば、やはり「別れさせ方」としては完璧だったのではないかとも、「雨」という自然現象、言わば「外的要因」が彼らを「別れさせた」という事実にしても、この映画のラストに訪れる「二度目の別れ」と何処か繋がっているようにもまた思われるのです。

 此処に描かれた「五月革命」前夜のパリの狂騒が、私の目に何となく「雪合戦」のような他愛もないものに見えてしまったのは、多分、私が、村上龍の原作小説をまた別の「世代闘争」の物語に書き換えてしまった宮藤官九郎と同世代だからなのかも知れません。私も十代の頃はこの映画にも引用されたジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンの音楽に対して、彼らがその居場所を与えられていた一個の「時代」ごと、強い憧れを抱いてもいたのですが、二十歳を過ぎた頃になるとその「熱」も幾らか醒めて、自身が生きている時代が「こんなもん」だから当時も「そんなもん」だったに違いないと納得する「聡明さ」に何となく自足してしまい、実際、それが正しい時代認識なのかどうかも分からないままに、今どきでも稀にスクリーンやブラウン管、あるいは活字によって再現されもするその「時代」に対して、何処となく醒めた視線をくれるようにもなってしまいました。尤も(その時代を扱った)映画などに於いては、むしろその「体温」に期待しているところもあって、故に、宮藤官九郎のような態度を余り面白いとは思わなくて、「どうせ嘘なのだから」とは言わないにしても、その胡散臭い「体温」を軽く去なしてみせるのが観客の仕事であると言うか、予め冷ました「低体温」の何かをスクリーンに置かれても対処のしようがないとわけで、少なくとも私にとっては、それはもはや「観る必要のない映画」と評するより他はないのです。

 それはさておくとして、此処で「雪合戦」を引き合いに出すのは、勿論、コクトー(メルヴィル)の『恐るべき子供たち』との比較に於いてなのですが(『詩人の血』の「雪合戦」とは敢えて言わないことにします)、あの映画に於ける「雪合戦」が必ずしも「他愛もないもの」と言えないのは、その雪合戦で雪玉を胸に受けたポール(姉弟の弟)が病に臥してしまい、それを契機にその後も「引き籠り」同然の状態になってしまうから、あの物語の悲劇はその「雪合戦」から既に準備されているのです。シネフィルから映画館を取り上げたらもはや引き籠るしかない、あるいはそんな「物語」でもあるこのベルトルッチの新作に於いては、つまり、アンリ・ラングロワの解雇がポールが胸に受けた「雪玉」に相応すると、そんなふうにも言えるのかも知れません。尤も、これがコクトーのそれのような悲劇に至ることを回避する契機となるのも、やはり窓を突き破って投げ込まれた「雪玉」によるものなのであって、そして、それがコクトーがその中に隠していたのかも知れない「石」が剥き出しになったカタチで投げ込まれたという事実は、その状況により「具体性」を与えるものともまた言えるでしょう。そもそも『恐るべき子供たち』のポールが雪玉を受けただけで倒れてしまうという状況は明らかに抽象的であると言うか、酷く理不尽な状況であるとも言えるわけで(実際その中に石が込められていたのかどうかは物語的にも判然としませんし)、その意味に於いては、アンリ・ラングロワの解雇が一見して健康そうな若者三人を引き籠らせるに至るというやはり何処となく理不尽なこの映画の状況は、正しくコクトーのそれと繋がっていると言えるのかも知れません。他方、彼らを悲劇から遠ざけ、その「引き籠り生活」の幕を引くことになる二発目の「雪玉(=石)」がより具体性を持つのは、それが窓を突き破るに相応しい物質的な「硬さ」を現実に有しているからであり、単なる雪玉が物理的にあり得ない(理不尽な)強度を発揮してガラス窓を突き破ってしまったわけでは決してないと、それが即ち、パリの「五月革命」という歴史的事件をその背景に置き、三人の若者のその事件との関係性にも(それなりに)重点を置いたこの映画と、コクトーのむしろ「幻想的」とでも言うべきそれを明確に分けているとも言えるのでしょう。もはや雪玉に隠されることなく剥き出しでガラスを突き破る石、あるいは、それは私のような醒めた視線をくれるもの対して投げ付けられたものでもあるのかも知れません。

 此処に於ける三人の「引き籠り生活」が「ユートピア」なのかどうかは意見の分かれるところなのだと思うのですが、一つ間違いないと思うのは、彼らが三人で引き籠って外部との関係を拒絶し続ける限りに於いては、彼らのあの「三角関係」はそれこそ「永遠」に持続されたのであろうということ(縱いエヴァ・グリーンがフライパンに卵を四つ乗せたとしても)、「破綻しない三角関係はない」という「真理」は多くの物語あるいは「実体験」が教えるものなのですが、その「真理」を鮮やかに裏切り続け得る状況をして「ユートピア」と呼ぶのは、多分、そんなに筋の悪い所作でもないはず、従って、例えば、初めのうちは裸体を極度に拒絶していたマイケル・ピットがいつの間にはむしろ率先して裸体を晒すようになったという状況の変化が象徴的に提起しもする或る種の「ユートピア論」のようなことを書くつもりはまるでなくて、此処では、ただ三人が三人のままであり続けるという一個の「ユートピア的」な状況と、彼らを「二人と一人」に分けてしまうまた別の状況(あるいは「現実」とも)との差異にのみ言及するのですが、それがつまり、此処に於ける「内/外」の関係なのであろうと、端的に指摘すれば、彼らが最後に「別れる」結果となったのは、彼らが「外」に出てしまったから、其処はまだ「ユートピア」には程遠い場所だったのです(あるいは三人に訪れたのかも知れない「コクトー的」な悲劇にしても、しかし、それを促したのはあくまでも「恐るべき親たち」即ち「外部」の介入なのです)。想像するに、「五月革命」に代表されるこの時代の幾つかの「運動」とは、此処に於いて「内」に実現されていた、三人が三人のままあり続けるという或る種の「ユートピア的」状況を、積極的に「外」に押し拡げようとしたものだったのではないかと。そして、既に「歴史」として語られることを以て自足せざるを得ないその鮮やかな蹉跌は、あのラストショットの余りにも悲しいカメラアングルを待つまでもなく、彼らが「外」に出た途端、もはや「三人」でなどあり得なくなってしまったという此処に明確に示された事実によって確認されるのではないかと。さらに言えば、それは三人が三人のままあり続けるという「反=物語的」状況が事も無げに「物語的」状況に回収されてしまったということでもあり、「映画」を愛し「映画」を模倣した彼らは、彼らがまさに模倣した『はなればなれに』がそうであったように(あるいはトリュフォーとゴダールのように!)、やはり「映画のように」自らの物語にも幕を引くことになるのです。

 一般公開より二週間早い金曜日の夜、「ドリーマーズ公開記念」と銘打たれたオールナイト上映にて(イチイチ「記念」でもないと思いますが)、理由が何処にあるのかはよく分からないのですが、客席は半分も埋まっていませんでした。ちなみに併映されたのはゴダールの『勝手にしやがれ』と『はなればなれに』の二本、何れも『ドリーマーズ』とは縁の深い映画ですが、個人的には、制度的な障害がもし何もないのなら、コクトー(メルヴィル)の『恐るべき子供たち』を掛けてもらいたかったところです。この日の客入りはとにかく散々だったのですが、しかし、一般公開が始まれば案外客を集めるのではないかとも、この手の映画は「売り方」さえ違えなければ(軽薄な)ブームを起こすのくらい容易な気がします。


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