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箪笥(たんす)
監督:キム・ジウン
2004年7月25日(シネマミラノ)

 鏡の中にある如く



 例えばこの場面。夜ベッドで何やら「怖いもの」を目撃した妹が堪らず姉の部屋に駆け込んで姉の寝ているベッドに潜り込む、妹思いの姉は優しくそれを受け入れるという場面があるのですが、問題はそれを捉えるカメラの挙動です。ベッドに仲良く並んで眠る姉妹の肩から上(つまり掛け布団に隠れていない箇所)を捉えていたカメラが(妹の様子が落ち着いたのを見計らって)そのままカットを割らずにゆっくりと、光沢のあるブルーの掛け布団を舐めるように二人の足元の方へと下りて往き、その流れの中でそのショットを終わらせるという、この一連の動作が「間違って」いるのは、一般的には、それが男女の所謂「ベッドシーン」を「省略」するのに用いられるカメラの動きであるから、最近観た映画だと、シルヴィオ・ソルディーニの『風の痛み』の中にも、ソファーで事に及ぶ男女の姿をカメラを左にゆっくりと「流す」動作で(思わせぶりに)省略するというのがありました。勿論、この姉妹の関係に性的なものを予感させるという意味なら何の「間違い」でもないのですが、しかし、特に妹の方などとてもそんな雰囲気ではありませんし、それにそんなことまで持ち込んでしまうと物語的にもやはり少しおかしな感じになってしまいます。あるいは、観る者を混乱させるための意図的な「誤用」であるとも考えられるのですが、しかし、何れにせよ、『クワイエット・ファミリー』のキム・ジウンが「無教養」であると考えるのが一番難しいわけですから、どうしても其処に何かしらの「意味」を見つけたくなってしまうのが「映画好き」の性というものです。何れにせよ、その場面の「違和感」をしてこの物語に周到に隠されているはずの「謎」を解いてしまうことは然して難しくもなくて、実際、私にも丁度その場面に続いて訪れる或る決定的な状況を待つまでもなく、その「謎」の殆どが読めてしまいました。「フェアプレイ」を心掛ければどうしても何処かに歪みができてしまうもの、嘘の下手な人が嘘をつくときに顔や身体の一部分を不自然に動作させてしまうように、「映画」も其処に何かを隠そうとすれば、取り分けカメラの挙動に或る種の「不自然さ」が現れてもしまうものなのです。

 一番分かり易いのは、やはりシンメトリーの構図が多用されていることでしょうか。シンメトリーの構図からキューブリックやロールシャッハを連想すれば何となく状況も読めてくるのではないかと。此処に於けるシンメトリーの構図が確信犯的なのは、物語の後半に現れるフィルムの色調を変化させた「回想」のシークエンスに於ける一連のショットとの比較からも明らか、例えば、それまでは必ず四辺のうちのどれか一つと垂直になる位置から捉えられていたテーブル(左右と正面に正しく椅子が配置されているため、必ず左右対称の構図を生みます)が、その「回想」の場面では「角」を中心に大凡「7:3」くらいの斜めの構図で捉えられているという、些か露骨過ぎる「差異化の意志」を指摘できます。カメラの「不自然な挙動」と言うことなら、例えば、友人夫妻が来訪する場面、「彼女」が二階でトレイにCDを乗せるショットから始まる一連のカメラの動きは非常に複雑で、今此処で具体的に指摘することは(私の記憶力の問題もあって)残念ながらできないのですが、要はその「複雑さ」が既に不自然なのであって、その一連の複雑は動きはつまり、「彼女」が来客に気が付いたにも関わらず、玄関先で友人夫妻を出迎えるのは別の人間(父親)であるという状況を、状況的な矛盾を生まないよう捏造するためのもの、其処では「彼女」を「玄関先に立たせない」ことが何よりも重要なのです。あと、これは余談なのですが、その友人夫妻との食卓の場面(当然のようにシンメトリーの構図が徹底されています)で取り分け印象に残ったのは、その夫妻の妻の方が椅子ごと「横倒し」になる状況を捉えた一連のショット、ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』の中にやはり椅子ごと人間が背後に転倒する状況を捉えたヒチコックを応用したと思しきショットがあったのですが、何となくそんなものを想起したりも、ショットの構造自体はまるで似ていないのですが。ともあれ、鏡像を駆使したショットであるとか、姉が黒い服を脱ぎ捨てるときの不必要に素早いカットバックであるとか、ともすれば無駄に「技巧」に走っているだけにも見えてしまうそれらが、実際にはまた別の意味を持っている、あるいは、物語的な或る事実を隠蔽するために監督自らが「技巧派」を装って積極的に「はぐらかし」をしていると、そんなふうにも指摘できるのかも知れません。そもそも、この映画の序盤は酷く「説明」を欠いているところがあって、「誰が何処へ何のために」という基本的な物語状況すら容易には知れないという、其処からして既に「不自然」なのです。

 ヒチコックの『サイコ』を想起させもする外観とキューブリックの『シャイニング』を想起させなくもない内部構造、この映画の主たる舞台となる「家」はそんな雰囲気を持っています。最近の日本のホラー映画はどちらかと言えば「都市型」の狭い一軒家やアパートを舞台とする傾向があるようにも見受けられ、それは、日本人が皆都市に暮らしているわけではないにせよ、そのような日常的な空間を舞台とすることによって或る種の「リアリスム」が追及されているというか、言うなれば「何気ない日常に突然紛れ込んでくる恐怖」の類が企図されているのだと思われるのですが、そのヒチコックやキューブリックのイメージに直結してしまう「家」を舞台とするこの映画は、そのような「リアリスム」からは遥かに遠いところにあると指摘できます。そもそも「長い廊下」などあり得ない(日本の)都市型の住居では、廊下を歩く人間の背中をステディカムで追い掛ける「キューブリック風」など端から無理、逆に言えば、どうしてもキューブリックを模倣したければ廊下を長く(家を広く)するより他にないわけで、否、決して悪い意味ではなく、この映画にはそんな「転倒」があるようにも思われるのです。映画が「映画的」であるには現実よりもむしろ「映画」を模倣すべき、というのはそんなに筋の悪い指摘でもないと思っているのですが、この映画に感じるのはまさにそんなこと、私は韓国の住宅事情などまるで知りませんから、あくまでも日本と同じようなものであろうとの推測に基づくのですが、少なくとも、近年の日本のホラー映画が企図しているに違いない日常を想起させる類の「現実感」など何処にもなくて、あるとすれば、或る時期の、専ら「家」を舞台とした欧米のホラー映画の、観ている方が恥ずかしくなってしまうくらいに「ベタ」な空間の記憶、それでも、あの「浮世離れ」した空間に「今どき誰があんな家に住んでいるんだよ」などと文句を並べてみせる観客が殆どいないのであろう事実は、つまり、どんな観客であれ、スクリーンといざ向き合ってみれば、現実ではなくむしろ「映画」の記憶を手繰り寄せつつそれを愉しんでいるということの証左に他ならなくて、あるいは、隠れるように有線電話を使う者はあっても、誰も携帯電話など持たない、それが現代の物語であれ、しかし、そんな「ホラー映画」の何処に「間違い」があるわけでもないのは、やはり、今さら指摘するまでもないことなのです。ところで、最近の日本映画の話だと、例えば、黒沢清の作品に頻繁に現れる「廃墟」というのが此処で指摘するものに似ていると思うのですが、あの黒沢清がスクリーンに持ち込む非日常的な空間は、どちらかと言えば、物語の日常性すら裏切ってしまう類の、スクリーンにあってすらかなり唐突なカタチで出現するものなのであって、決して物語の日常性を裏切ったりはしないこの映画のそれとは多少意味が違っているのだと思います。この映画の場合は、言うなれば予め「異空間」に物語を展開させているのですが、黒沢清の場合は、必要に応じてスクリーンに「異空間」を出現させているとでも言うか、しかも、その「必要」は「物語」によって要請されるのではなくて、それこそ「空間」そのものの要請、言い方をすれば、「映画」を模倣したくなったら(物語状況を無視してでも)スクリーンに「映画的空間」を出現させてしまうと、そんなところではないかと思っています。アメリカ映画を模倣したいのは日本の監督も同じ、「節度」とか「照れ」とか、「ベタ」な模倣を阻害するものなど幾らでもあるのです。

 上とも関係のある話。これは近年のアジア映画に於ける「最高級」の謳い文句となっている感もあるのですが、この映画はハリウッド(ドリームワークス)が「史上最高額」でリメイク権を獲得したことでも話題になっています。これは同様のことが謳われた『インファナル・アフェア』(香港)のときも思ったのですが、この映画にしても『インファナル・アフェア』にしても、わざわざリメイクするまでもなく既に立派な「アメリカ映画」であると言うか、勿論、物語の舞台がアジアで登場人物もアジア人、あるいは、脚本の細部に「アジア的」なものが発見できるにしても、しかし、それらは「アメリカ映画」の影響を大きく受け、むしろ、それなくしてはあり得なかった映画(「アメリカ映画」の影響を受けていない映画を探す方が難しいとも言えますが、此処ではあくまでも「程度」の問題として)、リメイク権を買う側にしても、別に「アジア的」なものに期待しているわけでもないはずです。何れにせよ、近年のハリウッドがリメイク権を買うアジア映画には大凡そのような傾向があるようにも見受けられるのですが、この「還流現象」は、あるいは今どきのハリウッドはもはや「アメリカ映画」すら模倣できていないという指摘さえ許してしまうものなのかも知れません。

 公開二日目の日曜日の正午、立見の出る盛況ぶりでした。初日の土曜日もやはり殆どの回が同様の状況だったよう、折からの「韓国映画ブーム」に加えて、既に「夏休み」に突入しているのか、中高生と思しきが多く劇場に足を運んでいることも混雑に拍車を掛けているようです。私がこれを観たシネマミラノは別に「韓国ホラー映画専門館」になったわけでもないのでしょうが、先週までもやはり韓国ホラーの『友引忌』という映画が上映されていたりも、その映画は「韓国ブーム」の(悪しき)影響で日本に「間違って」輸入されてしまった映画のうちの一本だったのですが、この『箪笥(たんす)』に関しては、それなりに(輸入する)意味もしくは価値のある映画だったと思います。


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