Index

 
誰も知らない
監督:是枝裕和
2004年8月7日(シネカノン有楽町)

 コレエダの実験



 上空を飛ぶ飛行機にふと目を遣って足を止める。妹のことを思い出したのでしょうか。物想いに耽ったままいつまでも歩き出さない彼は弟に促されて漸く歩き出す。この映画のラストシーンです。私はこの場面を酷く「醜い」と感じました。否、大仰ではなく、それまでの143分間がすべて台無しになってしまうくらい醜いと感じたのです。是枝裕和は彼に何故「あんなこと」をさせたのでしょう? やはり其処で映画が「終わる」からなのでしょうか? この長尺を「終わらせる」ためにはそれなりの「何か」が必要であると。

 瞳孔を開いて天井を凝視する猫、リヴェットの近作『Mの物語』の中にそんな状況を捉えた印象的なショットがありました。私のような「俗」な人間はスクリーンに決して捉えられることのないその猫の視線の先に果たして何があるのか、一体其処に何を置けば猫にあのような「演技」をさせることができるのか、あるいは魚でも吊るしているのだろうかと、そのショットの間中そんなことばかり考えていたのですが、今さらの話、一個の物語に従属するその映画作品に於いて重要なのは「猫が天井(二階)を凝視している」という状況、もしくは、その状況を不足なくフレームに収めているという事実なのであって、間違っても現実に其処に何があるのかなどではありません。あるいは、ロバート・ゼメキスの『キャスト・アウェイ』を観て迂闊にも「バーレボール」に感情移入してしまう人がいるのかも知れないのが「映画」というもの、「猫」も「バレーボール」も決して演技などしていないのですが、それでも、スクリーンに捉えれらたそれらに物語に正しく従属した何かを読めてしまう、それは一見して似ているようにも考えられがちな「映画」と「舞台演劇」の決定的な違いの一つとも言えるのかも知れません。『誰も知らない』の四人の子供達を「猫」や「バレーボール」と同列に扱ってしまうのは少し問題があるのかも知れませんが、しかし、積極的に演技をしていない、予め在る物語に正しく従属するようなカタチで演技をしてなどいないという意味では、少なくともロバート・デ・ニーロよりは「バレーボール」や「猫」と並べておくのが妥当なのではないかと、柳楽優弥がカンヌで受賞したのはあくまでも「最優秀男優賞」なのであって「最優秀演技賞」ではないのです。

 例えば、脚本を綿密に下読みして、明確な「演技プラン」に基づいて演技するベテラン俳優がいたとして、その表現活動の過程を仮に「言語1→演技(身体表現)→言語2」とするなら、映画に於いてそのうちの「言語1」が然して重要でないのは、既述の通り、そもそもが言語活動とは無縁な「バレーボール」や「猫」にすら観客によって読まれ得るものとしての「言語2」を生起し得てしまえることにも明らか、「言語1」と「言語2」が限り無く近接することが即ちその俳優の「演技力」の確かさを証明することになるとは言え、しかし、舞台演劇ならともかく映画に於いては、全くとは言わないにしても、やはりその類の「演技力」など然して重要ではないのです。言語ではない何かにカメラを向ければそれが「言語」となる、それが「映画」というものなら、少なくとも物語映画に於いては、その「言語」を制御する(物語に従属させる)のが監督の仕事の一つと言えるのかも知れません。此処に於ける雄弁さは、例えば「手」にあると指摘できます。電車の中でトランクに手を掛けた柳楽優弥の薄汚れて爪垢の溜まった手、赤いマニキュアを塗った北浦愛の手と、そのマニキュアが既に剥げた彼女の手、そして、もはや動くことのない冷たくなった清水萌々子の手、等々、メモを取る平泉成の大きな手は、その大きさ故に「大人の手」なのであり、それはまた或る種の「権威」をさえ表象し得ています。肝要なのは、それらの「手」が単にその「状態」を其処に映しているだけであるということ、手には「手の演技」というものがあるのですが、この場合のそれらは決してそのようなものではありません(勿論、柳楽優弥の手は予め汚れているわけではありませんから、其処に然るべき「演出」が介在するのは言うまでもないことですが)。既に冷たくなった清水萌々子の顔が決して映されることがないのも同様、彼女が「死体」を演じるなど到底無理であるという消極的な理由もあるにせよ、此処に於いては、その不在を以て「死」が表象されていると、其処に視線をくれる理由がもはや何処にもない、そんなカメラの挙動が「読まれるべきもの」としての「死」を其処に置いているのです。また、正月にはお年玉を、クリスマスにはケーキを、そして、大晦日には(インスタントの)年越し蕎麦を、柳楽優弥がみせるそんな「儀式」への偏執が、引越に際しては「引越蕎麦」を振る舞ってみせた母親の習慣に倣っものであることは容易に知れるわけで、観客の目にYOUが演じる母親が何となく憎めない存在である理由の一つはそんなところにも、彼女が「バラエティ番組」で見せるのと同じ「愛らしさ」を示してみせるから、勿論、それが一番の理由には違いないのかも知れませんが、しかし、それとて「演出」ではあっても「演技」ではないのです(そもそも彼女は「女優」ではありませんし)。

 平泉成はその手の大きさだけが此処に突出している、素人同然の子供達をスクリーンに並べたこの映画に限らず、是枝裕和の映画を観るといつも「クレショフの実験」のことが何となく頭に浮かんでしまうのは、其処に「演技派」の俳優を何人並べたところで、カメラがスクリーンに収めるのが、人物あるいは事物の「状態」であることに変わりがないから、そして、その「状態」を物語に従属させるのはただひたすらな「状況」の積み重ねであるという、北浦愛が「お年玉袋」のトリックに気が付く場面、彼女の何かを悟ったかのような眼差と「お年玉袋」の切り返しショットは彼女に何一つの「演技」も要請せず、しかも、その状況の訪れは、彼女がその「お年玉袋」を最初に箱にしまい込むときに其処に過去に貰ったと思しき「お年玉袋」の影がほんの一瞬カメラに捉えられたときから既に準備されていたと、それらが「自然」でもなければ「現実的」でもないのは言うまでもないことです。この映画が仮に「ドキュメンタリー風」であるにしても、しかし「ドキュメンタりーのように自然で現実的」と評するのは明らかな間違いで、正しくは「ドキュメンタリーのように不自然で非現実的」と、マイケル・ムーアの「ドキュメンタリー」が「劇映画」以上に「物語的」で、上で言う「言語1」と「言語2」の近接がより以上に作家(監督)の手(意志)に委ねられているのなど誰の目にも明らかなはずです。勿論、それは悪いことではありませんし、これが「映画」である以上、今さら何を批判すべきでもないこと、ドキュメンタリー出身の是枝裕和はそんなことなど百も承知のはず、否、むしろそれ故にこそ、でしょう。別に舞台演劇と映画を対置するつもりはありませんが、演劇的要素が圧倒的に欠乏しているにも関わらず、其処に一個の物語を成立し得ているという意味に於いて、これは実に「映画的」な映画であるとも、猫が天井を意味あり気に眼差してみせる「詐術」が、この一本の物語映画を成立させているのです。

 さて、冒頭の「あんなこと」に話を戻せば、それが即ち「演技」であるのは、此処に改めて書くまでもないことでしょう。あの場面で「最優秀男優賞」を受賞した14歳の彼が示してみせた一連の動作(運動)は明らかな「演技」であり、しかも、それは「物語的過去」に従属したもの、「ふと空を見上げて、飛行機の見える場所に埋葬してきた妹のことを思い出す」、彼がそんな「言語1」に要請されて慣れない「演技」をしたのであろうことは、他では然して感じることのなかったその運動の「醜さ」が容易に想像させます。此処で指摘する「醜さ」は、彼の演技の「稚拙さ」とはそれほど関係ありません。予め言語ならざる瑞々しき何かに観る者の情感が突き動かされ其処に然るべき言語を発見せざるを得ないのが、否、其処に発見された言語(あるいはその総体としての物語)すら実は取るに足らなくて、スクリーンに収められた言語に予定されていない故に瑞々しくもある何かにひたすらに心を動かされるのがこの映画の良さであり美しさであるとするならば、予め言語である彼のその運動(演技)が醜く感じられてしまうのも道理、あるいは、その「不自然な自然さ」がこの映画本来の「不自然さ」を歪なカタチで炙り出してしまっているとも、それがこの映画の価値をどれほども下げるとは思わないにしても、しかし、この「間違い」の理由は何処に、やはり一本の映画を「終わらせる」というのは、そのくらい難しいことなのでしょうか?

 公開初日の土曜日の午後、すべての回で立見が出る大混雑でした。午後2時過ぎに映画館に到着したところ、その時点で既に午後7時過ぎからの最終上映回以外すべて「満員札止」の状態、辛うじて購入できた最終上映回にしても、整理券番号は後ろから50番目くらいでした。これが「カンヌ効果」というヤツなのでしょう。受賞したのが「作品賞」や「監督賞」でなく、14歳の少年の「男優賞」だったのも、テレビ(主にワイドショーの類)の後押しを受けるという意味では、より効果的だったのかも知れません。これを受けて柳楽優弥にはテレビドラマの出演依頼が殺到しているそうなのですが、個人的には、かなりの確率で「失敗」するのではないかと予想しています。上にも書いた通り、彼の演技はお世辞にも巧いとは言えないわけで、「演出=演技指導」の感もある昨今のテレビドラマでは、ただひたすらに彼の「大根ぶり」が晒されるだけのような気がしてなりません。当時『キッズ・リターン』で注目を集めた安藤政信もその暫く後に何かのテレビドラマに出演(主演?)していましたが、あれも相当に悲惨でした(彼の近作を観る限り、今ならテレビドラマでもそれなりに通用するのかも知れません)。スクリーンで言う「圧倒的な存在感」の類は、ブラウン管では今一つ通用しないところがあるようです。尤も、ドラマを製作する側にしてみれば「取り敢えず柳楽優弥が出ていれば…」という程度の考えしかないのでしょうから、彼の演技がどうであろうが、別にどうだって構わないのかも知れませんが。


Index