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華氏911
監督:マイケル・ムーア
2004年8月21日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 ジャンクフードをその口に



 マイケル・ムーアのこの話題作、国内での「評価」を瞥見すると「メッセージ内容」に関するものよりも、案外その「手法」に関するものが多いことに驚きます。小泉純一郎を頭に置く日本国政府が「ブッシュの犬」であるのは今どき子供でも知っていることなのですが、その政府を支持している(ことになっている)日本国民としてはやはり何を躊躇うでもなく堂々と「反=ブッシュ」と標榜するこの映画の「メッセージ内容」を簡単に認めるわけには往かない、しかし、だからと言って積極的に反論するほどの気概にも根拠にも乏しい、故に、差し当たりその「メッセージ内容」は余所に措いて、殊更に「手法」を論じてみせる、いつもはどんな映画を観てもその「物語内容」にしか言及しないにも関わらず…、という指摘が当を得ているとは思いませんが、この映画への日本人としての最も正しい対処の仕方は、案外、小泉純一郎が臆面もなくそう宣言したように「観ない」というそれなのかも知れません。実際、多くのメディアがこれを取り上げ、国内でも大ブームになっているにも関わらず「自衛隊を即時撤退させよ」という論調が何処からも出てこないのはおろか、「スポーツの祭典」の陰に隠れて沖縄での「米軍ヘリ墜落」を巡っての(日米双方の)酷い対応に際してすら知らぬ顔で遣り過ごしてしまう、所詮はそんな程度なのですから、こんな映画などやはり観ても観なくても同じ、皆が皆挙ってマイケル・ムーアの「手法」に口を挟むくらいなら、まだ「あいのり」の「仕込み」でも批判している方が健全です。

 如何にも子供染みた「皮肉」はさておくとして、マイケル・ムーアの「手法」ということなら、これは『ボーリング・フォー・コロンバイン』のときも指摘したのですが、此処に於いては「状況の物語化」が顕著であるように思われます。それを指摘するのは、勿論これが表向き「ドキュメンタリー」の体裁を採っているから、別に淡々と事実のみを列挙するのが「ドキュメンタリー」ではないにせよ、それを「物語化」することによって、観る者の感情を或る方向に効果的に誘導し得るという意味に於いては、其処に本来あるべきなのかも知れない「客観性」が疑われてしまうことにもなります。スターリンの有名な言葉に「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計でしかない」というのがあるのですが、マイケル・ムーアが此処でやっているのはまさにそれ、つまり「一人の死」に焦点を当てることによって、それを「悲劇=物語」として観客に差し出しているのです。繰り返しになりますが、ひたすらに「統計的なもの=事実」を列挙するのが「ドキュメンリター」のあるべき姿勢ではないにしても、其処に「現実」よりも「悲劇=虚構」を読み得るような手法は、観客に「物語」への感情移入(同化)を促し、その客観性を奪い取る可能性を秘めているのです。指摘しているのは、勿論、このフィルムの最後の方で「物語」の「締め」として「紹介」される「ブラックホークダウン」で戦死した保守的な家庭に育った米兵とその家族(主に母親)にまつわるそれ、それはアメリカが作った無数の「ベトナムもの」の多く、例えばオリヴァー・ストーンの『プラトーン』がそうであったように、そのクライマックスに一人の米兵の死を置き、観客の情感を高めるのと手法としては同じ、もし仮にマイケル・ムーアが「統計的なもの」を列挙する程度では、(主にアメリカの)観客に効率よく「メッセージ伝達」ができないと考えたのなら、幾らアメリカ人とは言え、観客は其処まで「アホでマヌケ」ではないと反論しておきましょう。そもそもマイケル・ムーアが此処に演出を試みたそれは果たして本当に「悲劇」であるのか、なるほど、フィルム前半のジョージ・ブッシュを巡る殊更に「喜劇的」な演出との対比に於いて、その「悲劇性」はより際立つと指摘できなくもないのですが、しかし、そもそも私にはむしろ、それすらもジョージ・ブッシュを主役とした一編の「喜劇」の一幕であるようにしか見えませんでした。マイケル・ムーアが捏造した三流のメロドラマは、スタイナーが指摘した「悲劇の死」を乗り越えてなどいないのです。

 我々が知り得る「現実」もしくは「世界」には二種類あって、それは我々が直接にその目で認識する身近な世界と、然るべきメディアを介さなくては認識し得ない世界、大多数の日本人にとって今現在イラクで起っていることや、例の「9.11」は当然ながら後者に属します。後者が果たして、我々が直接認識し得る現実(最近めっきり白髪が増えたとか、隣の家が火事になったとか)と等質な「現実」なのかどうかは、これはもうメディアを信用するより仕方がないのですが、例えば、メディアがすべての「世界」を見せてくれるわけでもなく、それが如何なる意思によるものであれ、其処に予め「何を見せて何を見せないか」という「選択」が間違いなくある(選択を委ねている)以上、(メディアを介してのみ知り得る)世界は、何ものかによって作られているのかも知れないという発想も当然あり得るわけで、勿論、そんなことに神経質になっていてはとても今の時代を生きて往けないとは言え、鮮やかな詐術に知らぬ間に何かを掠め取られてしまうのが幸福な人生であるとも思えません。それはともかく、メディアを介してのみ知る得る「世界」をより「現実的」なものに近づけ、その「疑い」を払拭してみせる最も有効な手段の一つが、その「世界」を直接その目に収めることであるのは言うまでもないこと、テレビ映像、主に報道番組の映像をコラージュした(に過ぎなかった)『ボーリング・フォー・コロンバイン』に於いて、その「世界」が抱かせた幾つかの疑義を検証し、その「世界」をより「尤もらしく」みせるためにマイケル・ムーアが用いたのもそんな「手法」だったわけで、彼のトレードマークとも言える「突撃取材」がつまりはそれ、彼は、彼が其処に差し出してみせた「世界」の「現実性」をまさにその足で稼いだのです。今回はしかし、彼が得意とするその「突撃取材」がないばかりか、彼の姿がスクリーンに現れることすらも殆どありません。彼はメディアによって作られた「世界」の検証、その「外」にあるもの、其処から零れ落ちてしまったのかも知れない何かの提示を抛棄してしまったのか、否、決してそうではありません。今回彼は「突撃取材」とはまた別の方法によってそれを実現しているのです。象徴的なのは、テレビに出演するジョージ・ブッシュのオンエア直前の姿をスクリーンに執拗に映したこと、それは我々が知る「世界」の「外」にある(あった)光景なのです。我々が知る「世界」がメディアによって予め「選別」された映像の総体に過ぎないのなら、「NG」や「オフレコ」は文字通り其処から零れ落ちてしまった「現実」の一つなのであり、彼はそうやってその「世界」の虚構性(如何わしさ)を我々に差し出してみせるのです。ただ、残念ながら、その手法は既に使い古されたものでもある故に、壇上で「ブッシュよ恥を知れ!」と勇ましく吠えてみせる彼が、その肉体をあれほどまでに醜く歪めてしまうために一体どれほどのジャンクフードを(テレビには決して映されない何処かで)あの汚らしい口から抛り込んだのかということを観客が容易に想像できてしまうように、決して誰かを驚かせ得る「現実」を其処に映し出したりはせず、ただひたすらに予定された喜劇を演出するに止まるのです。カメラの前で執拗に見栄えを気にするジョージ・ブッシュの姿は確かに滑稽ではあっても、しかし、大抵の人間がそれと同じくらい滑稽な存在であることなど、聡明な観客は既に知っているのです。

 ブッシュはマイケル・ムーアの思っているほどの莫迦ではない。これはゴーダルの発言なのですが、私ならこう言います、観客はマイケル・ムーアが思っているほどの莫迦ではない、と。このドキュメンタリー映画がその「メッセージ内容」よりむしろ「手法」が取り沙汰され、ひたすらに一個の「エンターテイメント作品」として大量消費されるに止まる理由も、とどのつまりが、そんなところにあるのではないかと。

 公開第二週目の土曜日の午後、当然ながら満席です。一週前に恵比寿ガーデンシネマの単館上映で始まったこの映画も第二週目からは上映規模が一気に拡大されて「遅れてきた夏休み映画」と言った感じ、それでも週末は次々上映回までは確実に整理券が完売しているという盛況ぶりでした。其処に「政治性」が欠片も見えないだけに、その「集団ヒステリー」の如き現象はむしろ恐ろしくもあります。ところで、この映画を観てブッシュ家とビン・ラディン一族の関係はよく分かったのですが、オサマとビン・ラディン一族の関係というのが今一つよく分かりませんでした。勿論、「血縁関係」なのですが、もし仮にオサマが何処の家族にいる「黒い羊」なら、ブッシュ家とビン・ラディン一族の関係を指摘したところでどれほどの意味もないような気もしたのですが、どうなのでしょう?


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