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珈琲時光
監督:侯孝賢
2004年9月11日(テアトルタイムズスクエア)

 緩やかなカーブ



 この映画の中で好きな場面を一つだけ挙げるとすれば、それは一青窈が「肉じゃが」を食べる場面です。いつ口を開くのかいつ口を開くのかと、そんな状況が「サスペンス」を生起しさえする小林稔侍の重い沈黙とその場に張り詰めた緊張感は、肉じゃがを食べる一青窈の邪気のない姿の前に途端に緩み、発せられるべき言葉を待っていたはずのその沈黙は受容(黙認)へと転じてしまう、それは、何処にでもいそうな古風な父親像を体現する小林稔侍が其処に描くべき「直線」が、一青窈が描くその生き様としての「緩やかなカーブ」に取り込まれてしまう美しい和解の瞬間でもあるのです。

 遠くを電車が走り、その手前をその電車とは逆向きに一台の自動車が走っている、そんな長閑な田園風景を捉えたロングショットが、単なる「美しい景色」ではないのは、そのショットが「一青窈の帰京」という物語状況をもまた説明するものであるから、実際、それを説明するのは唯一そのショットだけのなのです(それが正しく「説明」であり得るのは、そのショットが、高崎に到着した一青窈を小林稔侍が駅で迎える場面のショットに正しく呼応しているからです)。勿論、一青窈はあくまでも一時的に高崎の実家に帰省しただけであり、彼女の口からも確か「二、三日」という説明が為されていたはず、故に、そんな説明などなくとも彼女が何れは東京に戻るのであろうことなど分かりきっているのですが、それでも、その程度の説明では何となく不親切に感じられてしまうのは、「東京から高崎へ」という「往路」の過程(道程)が、あるいは「説明過多」ではないかと感じてしまうくらいに執拗に捉えられていたから、この映画は何れのシークエンスに於いても概ね同様の構造を持っています(一青窈の帰省のシークエンスの場合、その「説明的」なロングショットがあるだけまだ親切な方です)。浅野忠信と一青窈が銀座へ「喫茶店」を探しに行くシークエンスにしても然り、高円寺から中央線に乗って新宿駅とお茶の水駅を経由して有楽町駅に降り立つ(駅の場面の殆どでその駅名が記されたプレート等が捉えられています)、そんな「往路」が捉えられることはあっても、しかし、彼らが自宅なり何処なりへと戻る「復路」が捉えられることはやはり一切なくて、故に、何一つとして結論の示されることのないあらゆる状況は、ひたすらに「宙吊り」のまま抛置されてしまう(その状況がより強調される)ことにもなるのです。また、執拗に捉えられるその「往路」に特徴的なのは、目的地が事前に必ず台詞を借りて示されるということ、つまり、説明が二重になっているのです。本来、目的地が既に明らかなら、差し当たり電車なり何なりその移動手段を示すショットを幾つか挟むくらいは常識の範囲内なのですが、この映画の場合は、しかし、電車に乗って揺られて乗り継いでと、まるで空間移動そのものが一個の目的であるかのようにすら扱われているのです。しかも、それは「往路」に限られているという、何となく不思議な印象を持ってしまいます。

 映画では案外「復路」が重要視されていて、時によっては、目的地に於ける結末の描写を省略して「復路」の車中での人物の表情や台詞にそれを暗示させるということも、「復路」の車中(機内)をラストショットとする映画も少なくありません。此処に「復路」が省略されている理由ば、取りも直さず目的地での出来事に結論らしきものがまるで欠落しているから、もし仮に其処に「復路」が捉えられていたとするならば、その車中に於ける一青窈の表情や仕草は、意図せざるとも観客によって「読まれるもの」として機能してしまうわけで、逆に言えば、此処に「復路」が欠落しているのは、そんな観客の「読み」を予め拒絶する態度であるとも、「往路」はあるが「復路」はない、それは、其処に間違いなく何かが起こるが、しかし、差し当たり結論らしきは何処にも見当たらないという状況に同じ、従って、この映画を評して「何も起こらない淡々とした日常、故により現実的である」とするのは明らかな間違い、そもそも、何処にでもいそうな若い女性が私生児を生む(決意を固める)ことをして「何も起こらない」など言えるはずもなくて、ならば、その結論の不在をして「非現実的」とする方がむしろ「正しい」のかも知れません。何れにせよ、此処に於ける一青窈(や浅野忠信)のそのやうな現実への対処の仕方もまた彼らが日常的に利用する或る移動装置によって正しく表現されているわけで、それが即ち「山手線」という東京の都心を走る環状路線なのです。

 この映画の中で二度反復される雑司ケ谷(一青窈の自宅)から神保町(浅野忠信の古本屋)への経路は随分と大回りなものです。都営荒川線を大塚で山手線に乗り換えて、その後は神田で降りて歩いているのか、あるいはさらに中央線にか総武線に乗り換えてお茶の水か水道橋で降りているのか、そのあたりはよく分からないのですが、何れにせよ、随分と不経済な経路であることは確かです。ちなみに私なら、荒川線で逆方向、早稲田駅で降りて其処から東西線(地下鉄)に乗り換えて九段下駅から歩くか半蔵門線に乗り換えて一駅先の神保町駅で降ります。荒川線の早稲田駅から東西線の早稲田駅まで間少し歩きますが、しかし、この方がより直線的で、時間的にもかなり早いはずです。そんな経路のあることを知ってか知らずか、一青窈はしかし当たり前のように山手線に揺られています。此処で重要なのは、それが終点のない環状路線であり、そのシートに一時間大人しく座っていれば、また元の場所に戻れる電車であるということです。例えば、高田馬場駅で降りるつもりの私が居眠りか何かをしていてうっかり乗り過ごし、気が付いたら既に目白駅だったとします。私は慌てて電車を降りて、反対側のホームで「内回り」の到着を待つことになるでしょう。しかし、別に慌てて電車を降りたりしなくても、もし私にそのまま其処に大人しく座っていられる余裕さえあれば、その電車は一時間後には再び高田馬場駅に停車して、私は其処に降り立つことができるのです。此処に於ける一青窈の現実への対処の仕方、現実と向き合う態度とは即ちそれ、慌てず騒がず、一時間待つ余裕で(いつでも何かが起こり得る)現実をなすがままに引き受ける、故に、其処には結論を持ち帰るべき「復路」など不要なのです。中央線の執拗な「直線移動」に堪え切れず新宿駅で一旦下車してしまった一青窈も、「緩やかなカーブ」で円を描く山手線の中でなら居眠りすらしてしまうという、その姿はまさに浅野忠信が描いたあの画の、緑色の電車に囲まれて胎児の姿勢で眠るそれ、彼が拾い集める「音」は、あるいは母体の鼓動のようなものなのかも知れません。ところで、あれは一体何処から撮っているのでしょう、お茶の水駅附近、聖橋の上あたりでしょうか? 此処に何度も反復されるゆっくりと滑るように走り交差する電車のイメージ、あの電車もやはり「緩やかなカーブ」を描いています。

 緩やかな円環軌道上を滑るように往き交い、直線の移動では「復路」を持たない、そんな若者達によって切り取られたまだ陽射しの眩しい晩夏の都会、しかし、それが果たして「東京」なのかどうかは分かりません。此処にあるのは確かに、例えばソフィア・コッポラがそうしたような、余所者の視座によって光と音に純化された「異空間」では決してなくて、限りなく「東京」に似た何処かではあるのですが、しかし、現実の「東京」ではやはりありません。古い地図を片手に嘗て在ったはずの場所を求めて銀座の街を彷徨う一青窈と浅野忠信、私は差し当たり彼らのそんな姿を侯孝賢に重ね合わせてみます。今では雑居ビルが建っているに過ぎないその場所を、一先ずカメラに収めてみせる一青窈、「復路の不在」は彼女の歓喜も落胆も教えてはくれないのですが、彼女がその嘗て何かが在ったのかも知れない場所をフィルムに焼き付けたという事実だけは、しかし、誰の目にも確かなことなのです。

 公開初日の土曜日の午前中(初回)、それなりに広い劇場はほぼ満席、高齢者の姿が多く目に付いたのは時間帯の所為でしょうか。そう言えば、蓮實重彦の出演シーンは見事にカットされていましたね。にも関わらず、クレジットでは一番最後の重要な位置ににその名が記されているという、これ以上ない「演出」ではないでしょうか。


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