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菊次郎の夏
監督:北野武
1999年6月13日(新宿ジョイシネマ)

 停滞した空間での物語



 映画と文学を差別化するのは、他でもない、そこに映像があるという事。文学に於ける映像は、あくまでも読者各々の頭の中にしか生まれず、例えば、個人的には大いに異論のあるところですが、その各々の映像が、限りなく均一になる事が、評価されるべき作家の技術であるとも言われています。他方、映画は、と言えば、予めそこに映像が用意され、観客の想像力に期待するまでもなく、簡単にイメイジを共有する事が可能、映像が物語を補完する事によって、文学作品ほど各々の印象が懸離れる事もないのかも知れません。しかし、肝要なのは、映像は物語を補完、説明するためだけに用意されているのではないという事、多くの映画評論の誤謬は、映像によって補完され、「分かり易く」なった物語をただ論ずるに終始しているという事、それが片手落ちであるのは、映像が物語を補完するためにのみあるのではない故、映像そのもの、あるいは、物語を補完しているにせよ、映像が如何にして物語を補完、説明しているか、それに言及しなくては、映画を論ずる意味がないのでは、と思います。

 個人的には、映画には2種類あると考えています。「ハリウッド・スタイル」とそれ以外、前者がスタンダードならば、後者はアンチ・スタンダード、その違いは映像の持つ意味、前者の映像が「物語の補完」により重きを置いているのに対して、後者は必ずしもそうでないという事、前者が分かり易く、今様に言えば「ノリが良い」のに対して、後者が些か難解で無愛想にも感じられてしまうのもそれ故の事だと思います。単に物語だけに言及するならば、実はゴダールもスピルバーグも大差がなくて、違いがあるとすれば、それを映像によって如何に説明するかという事だけ、後者が「文学的」とも評されるのは、映像がイメイジの共有を容易には許さず、観客に喚起すべきイメイジの余地を残している故の事でしょう。そのような意味に於いては、ハリウッド・スタイルの映画を論ずるなど、物語にのみ言及すれば事足りてしまうわけで、役者の演技とか演出、確かに、その他にも色々と言及の余地が残されているとは言え、少なくとも「映画作家=監督」を論ずる必要など何処にもないと言えます。個人的な話ですが、アンチ・スタンダードの類に慣れてしまうと、説明の過剰なハリウッド・スタイルが実に暑苦しく、その割には後に何も残らない貧困な映像には虚しさも、あるいは単に、僕の「ノリ」が悪いだけなのかも知れませんが。

 さて、北野監督の映画というのは明らかに後者、単なる「素人」ではなかろうかと疑いたくなるような説明不足です。勿論、説明はあるのですが、その手法は、例えば言うならば4コマ漫画のそれ、経過説明が排除され唐突に「オチ」が出現します。『菊次郎の夏』で言えば、菊次郎が少年と同行する事になる場面などが典型的、唐突に二人の2ショットに転じる事によって、結論のみを説明、あるのかないのか分からないその経緯は完全に排除されています。それが誤魔化しなのか、「無駄な説明を排除」しているのかは意見の分かれるところなのでしょうが、それが北野映画の特徴である事には間違いがありません。こういう言い方は些か失礼なのかも知れませんが、彼がそのような映像を撮れるのも、やはり「素人」だった故、ヘンに映画を学習した人間が同様の事をするにはかなりの勇気がいるはずです。「素人」であった故にこそ、映像で説明するという事を殆どゼロから頭で発想し、結果、そこに「映画的」ではないものが生まれたという事、それが最近の欧州で評価されている映像スタイルに酷似していたのは、偶然と言うよりは必然、そもそも「映画的」な表現手法など、いまだ何処にも確立されてはおらず、一般に「映画的」と思われているものが、「ハリウッド・スタイル」という、単なるローカル・スタンダードに過ぎない故の事です。ローカル・スタンダードに過ぎないものを、グローバル・スタンダードと見誤ってしまうと、些か不幸な結果を招いてしまうわけで、興行成績の類がその不幸を既に反映していると言えます。ビル・ゲイツのOSが仮にグローバル・スタンダードとなっているにせよ、しかし、それをOS自体の優劣の問題と錯覚する人間が殆どいない事を映画のそれにも当てはめて考える人間が増えてくれば、まだまだ軌道修正は可能、映画の歴史などまだ100年、スタンダードが確立されるなど莫迦げた話です。

 物語(情況)説明に拠らない映像が至ってシンプルであるのは言うまでもない事、しかし決して説明が不要なわけではありませんから、そのシンプルな中にも説明は為されています。些か単純な理屈ですが、ある一つの情況を説明するために、3つのカットを使用するのと、1つのカットで済ませるのでは、後者の1カットの濃度がより高いのではないかと思います。意味を多く含んだ1カットを撮れるのこそが監督の才能、前者が(教科書的な)技術ならば、後者は感性に依拠するもの、絵画や写真芸術のそれを想起すれば分かり易いのかも知れません。少年と菊次郎がバス停で長い時間を過ごすシーン、極めてベタなロングショットが多用され、観る人によっては平板なイメイジを抱いてしまうのかも知れませんが、個人的には、二人の関係、距離を示す、非常に意味のある美しいシーンだと感じました。敢えて言うならば、それも一つのリアリズム、対話での常套とされる手法を用いては、些か嘘臭くもなってしまうものです。多少不遜な物言いにもなってしまいますがそのあたりを直感的に理解できるのが、北野監督の才能なのではないでしょうか。

 この映画は、構成として、前半と後半に分ける事ができます。母親探しの旅とその挫折までが前半、旅先での「遊び」から旅の終わりまでが後半。前半が終わった時点で、まだ時間は半分近く残っており、「さて、どうなるのか?」と正直なところ思いました。しかし個人的には後半部分の方がより愉しめました。『ソナチネ』に紙相撲のシーンがあるのですが、あれと同様の「遊び」が手を替え品を替え、延々最後まで続きます。意味があるのかないのか、そんな事は分かりません。監督の言葉を借りれば「子どもをダシに大人が遊んでいる」という、その言葉通りのシーン、観ている側も愉しくなりますし、そこに登場する「子どものような大人」に魅力すら感じてしまうのですから、文句の付けようがありません。旅は人間を成長させるというのが物語の常套だと思うのですが、そこには決して成長しない、むしろ次第に子ども染みて往く大人が描かれています。この映画に意味があるとすれば、おそらくはそのパラドクスにこそ、タイトルは他でもない『菊次郎の夏』ですし。

 二人でプールサイドを歩くシーン、あれは自身の旧作を扱った意図的なパロディーでしょうか。だとすれば、世界の「キタニスト」に向けたある種のサービス、僕が「キタニスト」であるかどうかはともかくとして、ああいう「遊び」は個人的には好きですし、監督自身の余裕をも感じさせます。また、北野監督の作品で多用されている、フレームから人物が外れても暫くその何もない空間を撮り続けるという手法、今回の映画でも幾つかそのような場面がありましたが、個人的に非常に好きです。

 と、褒めてばかりいても面白くありませんから、一つだけケチをつけましょう。『菊次郎の夏』は一般にロードムービーとして理解され、監督もそれを意識しているフシがあるのですが、しかし、あの映画をロードムービーとして評価するならば、余りデキの良い作品とは言えません。ある種の統計によると、主人公が目を覚ます場面で始まる小説が、全体の何割かを占めるくらいに多いそうなのですが、映画の場合だと、自動車がある場所に停まる(主人公が運転する自動車、あるいは主人公が居る場所)場面から物語が始まるものが多いようにも思われます。通常の映画は、自動車が停まる事によって物語が始まり、自動車がその場を去る事がその物語の終わりを意味します。しかし、ロードムービーというのはむしろその逆、自動車が動き出す事によって物語が始まり、その運動の終わりがまた物語の終わりをも意味する、それこそがロードムービーというものだと思います。『菊次郎の夏』の場合は、殆どの場面が自動車が停まる事によって始まり、新たな発進は単に次の場面への移行を示唆するに止まっています。カップルが運転する自動車、義太夫が運転する改造二輪車、「親切なおじさん」の運転するワゴン車、それらが走っている場面は殆どなく、むしろ駐車されたそれら「乗物」の脇、停滞した空間で物語が進行します。あるいは二人が歩く場面すら殆どなかったように記憶しています。目的地があろうがなかろうが、動き出す事の意味、空間を移動する事の意味が、その映画には欠落していたように思われます。『まわり道』の意味もなく歩くシーン、『都会のアリス』の車窓を過ぎて往く少女、初期のヴェンダース監督のそれらこそが、僕にとってのロードムービーです。

 橋を駆ける少年、カットバックとして映画が最初と最後に登場するそのシーンを監督はまず最初にイメイジしたそうです。『キッズ・リターン』での二人乗り自転車が校庭で円を描くシーンほど美しくはありませんが、やはり印象深いシーンの一つです。あの橋は何処にあるのでしょう。特徴的な欄干が何となく僕自身の記憶と符合しますから、あるいは以前訪れた事のある橋なのかも知れません。浅草のあたりは仕事でよく通ります。気が付いたら今度探してみる事にしましょう。


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