Index

 
アイズ・ワイド・シャット
監督:スタンリー・キューブリック
1999年8月1日(新宿ピカデリー1)

 極めて不幸な遺作



 反社会性とか不道徳な思想を得るためにはある程度の教養が必要、少なくとも毎日ボウとテレビを眺めているだけでは、極めて「社会的」な犯罪者にはなれても、反社会的な人間になどなれないというのが持論です。学校の教員などは頻りに「本を読め」と勧めるようですが、真に「危険」なのはテレビではなく文学、従順にして無害な痴呆を生産するのがテレビならば、その痴呆を痴呆として認識させるのが文学、人間の目を濁らせるのがテレビならば、人間の目をクリアにし、対象の些細な「歪み」をも知覚させるのが文学、勿論、それが人間を良い方向へと導く事もありますし、また、文学だけがその役割を担っているというわけでもなく、私が経験としてそう論じられるのが文学、あるいは映画であるというだけの話です。

 倫理基準というヤツにも同様の誤謬が認められる事が多々あって、「何処まで見えているか」という事を以て判断していては、少なくとも「倫理的」という概念基準を見誤ってしまう事でしょう。「インモーが見えているからインモラル」というのは私が今思い付いた駄洒落なのですが、その判断をする「然るべき団体」のアタマの中身など所詮はその程度、『アイズ・ワイド・シャット』が「R指定」とされているのなど、どう考えても莫迦げた話です。勿論、「芸術性が云々」という話ではありません。その映画が極めて道徳的で、何の「倫理」を憂うモノでもない故、確かに陰毛は見えていますが、しかし、ゴールデンタイムに垂れ流されている昨今の阿房なテレビドラマほどにも不道徳なシロモノではありません。むしろ子供にこそ観せるべき作品、「不倫は妄想に止めよ」という教育には効果的かも知れません。

 少し難解な類の映画の解釈論議というのはナカナカ面白いのですが、しかし余り意味があるとも思えません。解釈の可能性など無限にありますし、「映画作家」自身の解釈に近ければそれが「正解」というのも何となく妙な感じ、彼らが既に解答を有しているのならば、そもそも「問う」必要がないわけですし。何れにせよ、当の本人が既にこの世にいないとなると、解釈論議の類もマスマス加熱、『2001年宇宙の旅』以上の謎です、あの恐るべき「凡庸さ」は。

 簡単に言えば、すべて大時代的です。もしあれがフェリーニ監督の作品ならば、直ぐに冗談だと分かるのですが、キューブリック監督の作品となるとアタマを抱えたくもなってしまいます。映像的には、まあ、「サスペンス」の部分など、『シャイニング』ほど過剰でもなく、急ぎ足の主人公を捉えるシーンは必ずと言ってよいほど、ハンディーカメラでその背中(あるいは正面)から等間隔に追うという手法が取られていたのですが、そういうのも実に彼らしい表現、個人的には非常に好きです。しかしそれ以外では、単に人物のバストショットを繋ぎ合わせただけの凡庸なカット(テレビドラマの殆どがそれ)も目立ち、そのヘンの色合いが何となく極端、また、冗長とすら感じられる長尺である事を考え合わせてみると、あるいは、監督の死は作品の完成に間に合っていなかったのではないかとの疑念さえ生まれてきます。「R指定」にされた事を含めたすべての「無責任」な宣伝文句など改めて眺めるにつけ、この作品が極めて不幸な「遺作」なのではないかとも思い至ってしまいます。

 余談ですが、この映画のパンフレットは「制作が遅れています」との事で、劇場での入手が叶いませんでした。中にはその状況に腹を立てて映画館職員に喰って掛かるシネフィルもいたようですが、そのヘンのチグハグさもまたこの「遺作」を巡る不可解な状況に呼応しているようで、何となくモノ悲しくもなりました。それがキューブリック監督の仕掛けた「最後の罠」なのか、それは誰にも分かりません。



 *同作品に関する後日稿(1999年8月26日)


 スタンリー・キューブリック監督の遺作である『アイズ・ワイド・シャット』、私の予想に反して興行的にかなりの成功を収めているようです。別に穿った見方をしたいわけでもないのですが、しかしおそらくは「R指定」ということを含めた様々な、私にしてみれば作品の本質とはマッタク関係ないとしか思われない「宣伝」の類が功を奏した結果と考えて間違いはないのでしょう。「穿つた見方」といっても、映画と言わず、商業主義的な意味に於ける成功を収めるものとは大抵がそうであり、今どきの表層文化とはつまりそういうもの、私の言っていることなど「皮肉」とも解されないのかも知れません。しかし、何であれ、観なくては始まらないという意味に於いては、筋違いな宣伝であれ、実際にそれで客集めができているわけですから、悪かろう話でもなくて、後は実際に劇場に足を運んだ人がどう思うかの問題、そこにどのような理解が生まれるにせよ、結果として満足を得る人が多ければ、それはそれで、映画好きの一人として非常に嬉しいことだと素直に思っています。ただ、この作品の場合、些か事情が異なつてゐるのは、監督が既にこの世にいないということであり、その不在に乗じて展開された好き勝手な興行戦略が、果たしてどれほどの乖離を生んでいるのかということ。勿論、それが監督が生前に示した意志だったのかも知れませんし、また、ああいうカタチの宣伝がなされているのは日本に於いてだけなのかも知れませんが、しかし、実際に作品を観た人間の一人としては、そこに明らかな乖離を発見せざるを得ません。

 映画に於いては「作家主義」といふ考え方があつて、50年代のフランスに於いて生まれた考え方だと私は認識しているのですが、これは主に「映画作家=監督」を中心に作品を論じるというやつで、「映画とは監督のものである」といふ発想に基づいているのだと思われます。そういうものが生まれた背景としては、その当時、映画監督といふものが不当に低く評価されてをり、人気俳優などを中心に映画が論じられることも多かった故、アルフレッド・ヒチコックやハワード・ホークスに初めて正当な評価を与えたのが、ゴダールやトリュフォーといつた異国の「シネフィル」だつたといふのが、その象徴的なものといえるのでしょう。それはともかくとして、以前にも書いたように、私が『アイズ・ワイド・シャット』を「不幸な遺作」と感じてしまうのは、宣伝に名前が利用される以外、何処にも「監督のもの」という印象を持ち得ない故、確かに、実質的な意味に於ける作品の所有者はその出資者であるプロデューサーであるのかも知れませんが、よく「編集権」などを巡って監督とプロデューサーが鬩ぎ合いを展開するような、そういったフェアな場面すら与えられていないようにも思われてしまうわけです。実際のところは分かりません。単なる私の「思い込み」に過ぎないのかも知れないのですが、ただ、私としてはその「興行的な成功」を余り素直には喜べないという、まあ、そんな話なのです。


Index