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シン・レッド・ライン
監督:テレンス・マリック
1999年8月8日(早稲田松竹)

 映画に於けるリアリズムとは?



 映画に於ける「リアリズム」とは何であるのか、と、ふとそんな事を考えます。別に映画である必要もないのですが、例えば「カメラの視点」というものを思い至る時、それが実は何者の視点でもない事に気が付いて、そこに絶望的な「虚構」を発見せざるを得なくなります。宗教の話となればまた違ってくるのかも知れませんが、現実の世の中には「客観的な視点」など存在せず、あるのは「主観」のみ、私にとっての「世界」とは、唯一私の主観を介した視点に於いてのみ構築されるわけで、仮にその主観とは無縁の「絶対的な世界」が存在しているにせよ、それを認識する術など何処にもない以上、どれほどの意味を持つものでもありません。J=P・サルトルは、小説に於ける人称に関して、極めて狭量な一人称をこそと提唱していたようですが、それもまた「リアリズム」の追求故、単なる1人称ではなく、「私」の視点を介してのみ世界が構築される物語こそが現実的、マロニエの木が如何なる変容を遂げようとも、そんな事は大した問題でもないのです。視点の数、っまり人間の数だけ「現実」は存在し、唯一つ、それこそが絶対であると作者の主観で決め付けた尤もらしい「現実」こそが虚構である、そんなところでしょうか。

 最近の戦争映画というのは、とにかく「リアリズム」の追求こそが至上命題となっているようで、大抵の場合、そこで「現実」として描かれるのは「無意味な死」というやつ、英雄も悪役もゐません、醜く滅びる肉体とそれを促す無意味、私は戦場に足を踏み入れた事などありませんから、軽々にモノをいうのも憚られるのですが、そもそもあらゆる死に意味などないはず、所詮は捏造されるに過ぎないモノという事くらいは何となく分かりますから、戦場のそれもおそらくは「現実的」なのでしょう。ただしかし、大抵の戦争映画には「物語」があって、その「物語」とは「無意味を捏造するための意味」とでもいうべきか、その死が如何に無意味であるかを説明するためにそんなモノが仕組まれており、そのヘンが極めて「非現実的」であったりもします。「無意味に特化された死」などと書くとますます分かり難くなってしまうのですが、例えば『プラトーン』という作品に於ける物語の「クライマックス=死」というのなど、嗤ってしまふほど「非現実的」です。何者でもないはずの「カメラの視点」が、死を以てクライマックスに至る「物語」を忠実に追い掛けている、「それが映画である」というならば、やはり所詮は「虚構」に過ぎないという事もまた認めなくてはなりません。

 戦場に「物語」があるとすれば、それは生と死を分ける偶然の物語のみ、『シン・レッド・ライン』のリアリズムはそこにあるような気がします。物語がないどころか、主人公さえ曖昧、「哲学的」というよりむしろ「宗教臭い」モノローグに象徴されるように、その視点(カメラワークではなく)は神のそれ、物語を追い掛ける「人間臭さ」は感じられません。扇情的な「物語」が付随しない分、より「現実的」であるとするのは些か短絡的であるのかも知れませんが、視点の定まらない「倦怠感」に、私はリアリズムを感じました。「物語」としての物足りなさを指摘する声も少なくないようですが、そういう人は戦争がエンターテイメントである必要など何処にもないという事にそろそろ気が付くべきでしょう。

 どうしても『プライベート・ライアン』と比較されてしまうようですが、これはそもそも戦争を題材とした映画ではあっても、決して戦争そのものを論じた作品でもなく、あくまでも「生と死を分ける偶然」の物語、戦場はそれに最適な場面であったに過ぎないようにも思はれます。「自然」に目を向けたカットが多く、それらとの意図的な対比も目立つのですが、その不変なる営みの前に於いては、人間の死など偶然に過ぎない、まして「意味」など、といったところでしょうか。

 カメラワークは非凡です。戦場の臨場感とか、その如何にも「映画的」なモノは、私の観てゐない『プライベート・ライアン』には到底及ばないのでしょうが、既述の「自然」の描写を含めた斬新なカットは、捏造された安っぽい「物語」などより余程雄弁です。難点があるとすれば、あの意味不明な豪華キャスト、冒頭にチラと登場するジョン・トラボルタなど、いつ踊り出すのかと観ている方がハラハラとしてしまいます。ジャック・ベッケル監督を引用するまでもなく、それが「リアリズム」を遠ざけてしまうのは如何ともし難いところです。また、映画にモノローグが多用されるのも余り好きではありません。言葉で説明する部分が多くなると、どうしても作品が薄っぺらくなってしまもの、小説など書ひてみるとよく分かりますが、モノローグというのは情況を説明するに於いて最も簡単な方法なのです。

 本日も、先週に引き続いて「早稲田松竹」で映画を2本、上述の『シン・レッド・ライン』と、その映画で「主演扱い」になっていたショーン・ペンが監督をした『インディアン・ライナー』という作品。後者についても何か書こうと思っていたのですが、面倒臭いので割愛、決してちまらない映画だったというわけではありません。「マドンナの旦那」の副業として俳優もしていた当時は、「ションベン」などとも揶揄されていた彼が、一端の「演技派」として認められるようになるなど、想像もできませんでした。本日は立見にまでは至りませんでしたが、やはり殆ど満席状態、何よりな話です。これからは毎週「早稲田松竹」で映画を観ようかとも思ったのですが、来週の上映は『アルマゲドン』、さすがに私の足も向きません。



 *『プライベート・ライアン』に関する記述(1999年11月1日)


 以前『シン・レッド・ライン』の感想を記した際に、観てもいないのに勝手に対比させた作品。戦争映画というのは、大抵が「弾に当たらなかった人間から遡行する物語」であり、この作品もまたその範疇に、如何にリアリスティックな描写を駆使しようとも、その御都合主義的な「虚構性」だけはどうしても排除できないものです。また、如何に「無意味な死」を積み重ねてそこにリアリズムを捏造しようとしても、結局は「ある特定の個人の死=クライマックス」という白々しい「エンターテイメント」を脱することができないのも致し方のないところなのでしょうか。別にそれが悪いといっているわけではなく、これはおそらく一流のエンターテイメントなのであつて、しかし決して「戦争映画」として特別な位置にある作品ではないということ、彼の監督も自称するように、クロサワの立派な後継者ではないでしょうか。少なくとも私には「徹底したリアリズムで戦争の悲惨さを云々」などと評するヒトの気が知れません。私に理解できたのは「リアリズム=大迫力=エンターテイメント」という構図のみ、それ以外に特筆すべき一体何があったというのでしょう?


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