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セレブリティー
監督:ウッディ・アレン
1999年8月22日(恵比寿ガーデンシネマ)

 「虚構」への暗い断絶の意識



 上映に先立った予告編で「恵比寿ガーデンシネマ」というその映画館が5周年を迎えたというアナウンスが、最近のアレン監督のロードショー公開は殆どその映画館で上映されていて、実際、私もそこで観ていますから、まだ5年しか経っていないというのは少し意外な感じがします。私の記憶に間違いがなければ、その映画館で最初に上映されたアレン監督の作品は『ブロードウエイと銃弾』、それ以後5本くらいの新作がロードショー公開されていますから、それが随分と昔に思へてしまふくらい、アレン監督がコンスタントに作品を発表しているということなのでしょう。それ以前の作品は確か「日比谷シャンテ」などで上映されていたはず、『アリス』や『マンハッタン殺人ミステリー』を観たのはまだ学生の当時、銀座に住んでいる頃でしたね。そういえば、その5周年を記念して「市川雷蔵特集」が近々上映されるとか。予告編で流れていたニュープリント版の『眠狂四郎』は随分と生々しかったです。まだ先の話ですが、多分観に行くことでしょう。

 さて、上映開始の30分前には映画館に到着していようと、単身山手線に乗り込んで恵比寿に向ったのはよかったのですが、着いてみると私の3人前で午後4時30分の回のチケットは完売、致し方なく次回、午後7時のチケットを購入することにしました。別に全席指定というわけではないのですが、座席数と同じ数だけチケットが売れたらそれで締め切りとなるシステム、それが分かっていて早めに劇場に足を運んだのですが、日曜日の午後とはいへ、よもやウディ・アレン監督の作品がそんなに盛況とは予想だにしませんでした。やはり私と同じ目に遭ったのでしょうか、シネフィル風の女性2人組がポスターを指差しながら「こんなのが出ているから混むのよね」と、その指の先には「刑事プリオ」、そういへばこの作品、随分と以前から彼が乱交シーンを演じるということがスポーツ紙に取り上げられるくらい話題になっており、私もそのヘンのところをうっかり忘れておりました。「刑事プリオ」目当てに来る観客がどのくらいゝるものなのかは分かりませんが、そういう人達は満足して映画館を後にすることができたのでしょうか。少し気になるところですね。

 私が想起したのはフェリーニ監督の『甘い生活』と、アレン監督の旧作『スターダストメモリー』です。モノクロ作品ということで『マンハッタン』が引き合ひに出されることも多そうなのですが、私としては、やはりフェリーニ監督の『8 1/2』を意識化に置いて作られた『スターダストメモリー』を、試写会で終わるラストなど特にそう思わせます。フェリーニ監督の影響といえば、テレビ局でドタバタとするシーンなど『ジンジャーとフレッド』を想起、そういへばあの映画の中にもウディ・アレンのそっくりさんが登場して「風呂なしのウディ・アレン」という意味不明なジョークが、何れにせよ、昔からそうなのですが、アレン監督の作品はフェリーニ監督の影響下に、余り評判のよろしくない彼の「ベルイマンもどき」よりは、個人的には余程好きですね。『甘い生活』を想起させるのも、作品の状況や設定だけではなく、オープニングのシーンなどが「如何にも」といった感じ、そういうのを確認するだけでも十分に愉しめる自分が愛おしくもあります。

 今さら「マンネリ」と評したところで詮方がないわけで、もはやウディ・アレン監督の作品は、その「マンネリ」を愉しむ域に達したというか、結局、私を含めた、彼の作品が好きな人というのは、その「マンネリ」をこそ愛おしく感じているのであります。お話は確かに毎回違っているのですが、舞台や登場人物、それらの人間関係も殆ど同じ、アレン監督が主人公に自分自身を投影しているのですから、それも当然のことです。映像的には毎回ほんの少しだけ「実験」をしているようなのですが、今回はモノクロであるという以外、それも特になし、モノクロにしても過去に何本も撮っていますし。違っているといえば、ラストに「救い」とか「明るい兆し」が見えないところ、毎度お決まりのジャズが流れるエンドロールへの切り替わりも、何となく「暴力的」な感じ、そのアタリに何らか心境の変化が現れているのかも知れません。そもそもこの主人公、解説などを眺めると「セレブリティーの仲間入りを果たすべく云々」と書かれているのですが、私にはそのようには見えませんでした。小説家や脚本家を目指しているわりには、タイプライターを叩いているシーンなど一度も登場しませんでしたし、「中年危機」が主題のようで、しかし切実さは何処にも感じられません。それはこの作品がコメディーであるせいばかりではなく、そもそもアレン監督にしてみれば、そんなことなど別にどうでも良かったのではないかと私には思われます。あくまでも主人公の視点を通して描かれる「セレブリティー」の狂態を徹底的に茶化したいだけの作品、『スターダストメモリー』のラストではアレン監督の暗い表情が映るのですが、その「暴力的」なエンディングと、「HELP」の文字を眺める、何の救いも与えられないケネス・ブラナーの表情にそれと同じものを感じました。何もかもが虚飾であり虚構である、そんなものへの暗い断絶の意識が、あのエンディングには描かれているのかも知れません。「HELP」と叫ぶのは他でもないアレン監督、そういう意味では、「皮肉」とか「茶化し」などを越えた、随分と暗い作品のような気もしてきます。モノクロという如何にも「映画的」な手法を用いたのも、その「虚構」を際立たせるため、映画の冒頭で撮影シーンが登場する劇中映画をラストで見せるのも、ゴダールが「クレーン」を輪転させて莫迦にするようなもの、チョット考え過ぎでしょうか。

 帰りの山手線で映画のパンフレットを。作品の趣旨に合わせてのことでしょう、パンフレットはまるでタブロイド紙のような作りでした。タブロイド紙にしては紙が上等で少し扱い辛いシロモノでしたが、こういうのもたまには良いもの、電車の中で広げても違和感がありませんでしたし。


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